2018年7月27日金曜日

中国人群衆の自殺見物と「早く飛び降りろ」の合唱について

1)日経ビジネス記事に投稿された、ノンフィクションライター山田泰司氏による「中国人の火葬嫌いと自殺見物と村上春樹と」という記事を読んだ。先月、中国甘粛省慶陽という町での出来事についての記事である。ビルから飛び降り自殺しようとしている若い女性を見物しに集まった観衆から「早く飛べよ」とはやし立てる声がいくつも上がったという。中国ではこのような光景はその後も頻発しているという。 https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/070500081/?P=1

自殺したのは、2年前からセクハラ被害にあい、悩んだ末に精神を病んだ19才の女性である。ビルの8階から飛び降り自殺を図ろうとした際、駆けつけた消防が数時間説得を試みた。見物に集まった野次馬の中から、上記の様な心ない野次がいくつも飛び、それを聞いた他の野次馬から笑い声が上がったという。様子を動画投稿サイトで実況中継する者もいたという。その女性は、ビルによじ登って近づき、説得に当たっていた消防隊員に礼を述べ、「飛び降りなきゃいけないみたい」の一言を残して身を投げ出し絶命した。

その事件を伝える中国メディアには「冷血」「鬼畜」といった言葉をタイトルに並べ、野次馬を厳しく非難するものが目立ったという。

この様な光景は、現代中国で現れた新しい現象と思いきや、そうではないというのである。中国メディアの記事でも引用されているのは、魯迅が文集「吶喊」の前文に紹介している同じ様な光景である。西欧医学の勉強のために日本に留学して来た魯迅は、東北医学校に籍を置いていた。微生物学の講義の中で、一区切りついたときに余談的に教授が示すスライドの中に、ロシアスパイで捕まり斬首される寸前の中国人と、それを無表情に見る何人かの中国人が映されていたのである。

魯迅は、「およそ愚劣な国民は、体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、全く無意義の見世物の材料になるか、あるいはその観客になるだけのことである。病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だから私どもの第一要件は、彼らの精神を改変することである。」と書く。医学は決して重要なものでないと悟った魯迅は、その後文芸を志すことになったという。

澎湃新聞コラムニストの張氏は、「多くの人は、魯迅が描いた時代から100年後のいまなお、一部の国民は感覚が麻痺していて無関心なのかと嘆き、驚いている」と指摘。その上で、「ただ、今回の事件は麻痺しているのでも無関心なのでもない。(彼ら見物人は)『ハッピー』であり『カーニバル』なのだ。『観客』は、無関心よりもさらに悪い『消費者』になった」と断じ、嘆いている。

2)一方、日経ビジネスのコラムの記事は、上記中国人コラムニストや魯迅の考えに賛同するものの、その原因を文芸的素養のなさに求めるのは無理があり、中国人の独特な死生観にあるという解釈を披露している。そして、以下のように見物する群衆の心理を推測している。

中国人の死生観は、徹頭徹尾「命あっての物種」であり、飛び降りて自死しようとしている人に対しては、「自分から死のうという理解不能な人は、どうぞ死んでください」という突き放した気持ちが、激しい言葉を躊躇なく発することにつながっていると解釈する。「生きていれば世の中楽しいことだってあるかもしれないのに、死ぬことはないじゃないか。止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」という思いが無意識のうちにあるのだろう。

日経ビジネスの記事で山田泰司氏は、中国で当局の意向に反して土葬が増加していることを取り上げ、自説の補強としている。土葬の増加を身体が生きている時と同様、「全く無傷」のまま土に還れる「全身而退」という中国の伝統思想の復活が進んだのだとし、この傾向を「死んでからも生きている時と同様の状態でいたいという心は、“命あっての物種”に通じる、中国の死生観を垣間見ることができる」としている。

更に、村上春樹の小説が中国で人氣があることから、「ノルウエイの森」の一節「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(講談社文庫版、上巻、P54)を引用して、その考えが“命あっての物種”と合い通じるとしている。

3)私は、日経ビジネスのコラムニストの分析は全く間違っていると思う。最後の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉は、別に村上春樹の発明でも何でもない。「人間の生」をそれ以外の動物の生と分ける重要な点であり、ほとんどの宗教の原点でもある。そして、「死んでからも生きている時と同様の状態でいたい」という考えは、「命あっての物種」とは関係なく、死後の世界を考える人間の原始的且つ基本的感情である。(補足1)

コラムニストの自殺見物の群衆の心を推測した「止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」というのは、日本人が無理に解釈しようとした結果である。何故なら、もしその様な気持があるのなら、「どの飛び降り自殺の現場でも、野次馬が『暑いんだから早く飛べよ』と大声で叫んだり、『飛べ!飛べ!飛べ!』の大合唱が起きたりした」という記述を説明できる訳がない。

私の解釈を以下に書く。上記の自殺見物の様子は、中国人個人の典型的な社会的姿勢の反映だと思う。 つまり、中国は究極の個人主義の国であり、彼ら中国人が生きる社会は個人と個人のコネの集積に過ぎない。それ以外にあるのは、支配する側の強制と支配される側の服従だけだろう。そこには公(おおやけ)という心情も概念もなく、それが多少とも存在する日本や西欧社会との違いだと思う。つまり中国人は、自分でも自分の親族でもなく、更に自分の知人でもない人間に対して、全く無関心であるということである。同情は、同じヒトであるということだけでは、湧かないのである。

公空間が無ければ、ヒトとヒトの間には、仲間(同志etc)という関係、敵対という関係、それに“完全な他人の関係”の三通りしかない。同志という関係では親密に協力し合い、そして敵対という関係では命をかけて戦う。もしそうだとすれば、“完全な他人の関係”においては、自分が心情を寄せたり、具体的行動をしたりすることはない。単に真空空間の向こうの見物の対象にしかならないのである。

日本人には、この国に生きるヒトであれば全くの他人でも、同じ国の民であるという感覚があるようだ。それはおそらく天皇の存在が関係しているだろう。(補足2)また西欧社会には、個人主義を取りながら、市民革命を経て、市民が作る公(おおやけ)の空間(補足3)を民主主義社会運営の場としている。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42603412.html 

何れにしても、西欧にしても日本にしても、同じ国の民であれば無関係な個人に対しても、一定の権利と義務の関係を想定するのである。(補足4)自殺すると称して、ビルの高い階層から下を覗き見る人を見たならば、自分の意思と行動の基準を、私空間から公空間のそれに切り替えて、救いの手を差し伸べるのである。

一方、中国では一般の民に存在するのは私空間だけである。選ばれた少数のエリートたちに存在するのも、本質的には私空間しか存在しないだろう。彼らの管理すべき空間は、公空間に言うよりも私空間の延長だろう。自分への利益誘導は、トップエリートの間にも蔓延していることは、それを示している。

大陸の広い空間のなかで生き延びることの困難さと、これまでの支配と被支配の歴史は、そこで生き残るに相応しい文化を構築した。それは、小さい島国で天皇の臣民としての形を1500年近く取り続けた国の民の心情と異なって当然である。

魯迅は、西洋医学を日本で学び中国に帰って医者になろうと考えたが、その考えは上記中国人スパイの処刑とそれを取り巻く中国人たちの姿を見て、「病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だから我々の第一要件は、中国人の精神を改変することである。」という考えに変わる。

日本人には鬼畜に見えるかもしれない自殺直前の者に対する言葉と、中国人の思考の幅の広さ、ダイナミックな性格は、表裏一体をなすのだろう。魯迅と心無い言葉をかける大衆との間の差は、その広い思考レンジの中の緻密さだろう。(補足5)

逆に言えば、「命は地球より重い」などと言いう言葉を聞けば、一般庶民から総理大臣まで蜘蛛の網に引っかかったように身動きがとれなくなる日本人の思考レンジの狭さ、行動の鈍さを議論しないで、一方的に中国人の発想の大きさ故の粗野さを非難するのは誠に愚かである。

補足:

1)来世を考えるキリスト教などでも、土葬が基本である。

2)明治天皇が日露戦争のときに詠んだ歌、「四方の海、皆、同胞(はらから)と思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ」は、人間社会に対する日本人の理解を示している。勿論、国際社会を同胞の世界と理解するのはまちがいだろう。

3)公空間は、社会の中でのトラブルや過不足を、民一般が参加して解決するための場である。行政機関や立法機関などはその中に作られたそのための道具である。

4)自分の私的な時間と幾ばくかの財を公に拠出し、公の作り出した財やサービスを受取り、私的に用いる。その国の民は、その公の空間を作り維持する義務と権利を共有する。

5)上記心無い言葉は、自殺するか弱い精神を侮蔑する気持ち、非難する気持ち、自分に言い聞かせる気持ちなど、入り乱れているだろう。中国人であれ何人であれ、現実主義に立って考えればは、助ける言葉をかけるとした場合、同時に「その人の荷物を分担する方法」も自分に無ければならない。その人の荷物を担ぐ覚悟もなく、兎に角命は地球より重いのだからという説得ができるのは日本人くらいだろう。

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