2018年7月30日月曜日

オームの死刑には反対できないという死刑制度反対の著名作家

1)オーム真理教の教祖以下幹部13名が、地下鉄サリン事件などの犯人として裁判を受け、死刑判決の後8年後の今月に死刑が執行された。(補足1)この判決に関して、国際的に著名な作家の村上春樹氏は、29日付けの毎日新聞に寄稿して、以下のように考えを示したという。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180729-00000030-jij_afp-int

村上氏は自身について一般的には「死刑制度そのものに反対する立場」だとした上で、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド(Underground)」(1995年)を執筆する過程において事件の被害者や遺族の苦しみに触れた体験から、「『私は死刑制度に反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる」としている。(原文のまま)

このネット記事を読んだとき、当に“空いた口が塞がらない”状況となり、そのままこの文章を自分のMacBook Airに打ち込んでいる。“文章書き”なら、もっとハッキリと「自分には、日本国に於ける死刑制度の適否が分からない」と公言すべきだろう。

ただ、話の前提に“一般的には死刑制度そのものに反対する立場だ”が存在するというから、この人の言葉は私にはさっぱり理解できない。「死刑制度は廃止すべきだが、この人達を死刑にすることは理解できる」ということである。その存在する筈の根拠を論理的に言葉にしたいのだが、うまく見つからないのかもしれない。(補足2)

或いは、村上氏が公言できないのは自身の「死刑廃止論撤回」なのかも。つまり、この件の犯人達は当然死刑にすべきだと思うのだが、「死刑廃止の立場を返上します」とは、いろいろ事情もあり公言できないという可能性もある。

新聞に寄稿することは公言することだから、「自分は死刑制度反対の立場である。しかし、今回の死刑に反対だとは公言できない」と公言したのである。考えれば考える程、何が何だかわからなくなる。そこで視点を変えてみる。

2)もしかして、私は日本社会と日本語を理解していないのかもしれない。日本社会で日本語を用いるとき、最も大事な言葉は枝葉末節にあり、根幹にはないようだ。

村上氏の言葉では、「今回の死刑に反対だとは公言できない」の前に、“簡単には”が付いている。この「簡単には」が、日本社会における日本語の用法上、最も大切な言葉なのだろう。

日本人が共有すべきは言葉じゃない、心なのだ。「簡単には」は心の叫びを表している。それを聞いたとき、言葉をこえて判りあうのが日本人なのだ。言葉はそのための道案内の看板に過ぎない。(補足3)しつこく屁理屈をこね回す人だ。

そのような批判がどこかから聞こえるような気がする。私は日本人の血統にありながら、自然科学という"夷狄"の学問を少し勉強したためか、日本人の心をほとんど失ったのかもしれない。つまり、論理を無視し直感に訴える俳句の世界にいることを、忘れてはいけないのだろう。

補足:

1)送迎役であった高橋は2012年逮捕され、最終的に無期懲役となった。実行犯の内、自首扱いされた林郁夫も無期懲役の判決となった。

2)「法律は、一つの国家体制内での物、人、金の動きを整理するための規則であり、国家体制の枠を超えたことには適用できない」ことを十分理解されていない可能性がある。オーム事件は、国家体制を破壊することを目的としてなされたテロであり、日本軍が出動してオームの拠点の鎮圧と麻原以下の逮捕を行うべきであった。
首謀者は、軍事裁判の中で裁くのが本来の姿であり、その場合の死刑は一般犯罪の死刑廃止論とは必ずしも矛盾しない。つまり、戦争で敵兵を撃つことは死刑廃止の立場から私には出来ませんと、西欧の人も言わないだろう。
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43716015.html 
日本国は、憲法で非武装を宣言した国家である。得体の知れない国家では、国際的に著名な作家から論理矛盾的言葉が出るのも無理はない。

3)道路わきに頻繁に現れる標語板も、この国の特徴である。「大人が変われば 子供も変わる」という看板が、近くの中学校沿いの道に掲げてあった。
「何が言いたいのか?」「言いたいことがあるのなら、もっと明確に言うべきだ。」「日本人なら、分かるだろう。」

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