2018年9月5日水曜日

善悪の二つの側面(III)公的空間を持たない一神教の国の人々

1)前回までの総括:

前回までの2回のブログ記事で、民主国家などの個人が自立した社会では、各個人が公的善悪を共有しながら独自の私的善悪を持つべきというモデルを提出した。公的な善とは、社会を健全に維持するために、個人やその集団が自己の負担を乗り越えて、取るべき行動等である。(補足1)公的(社会的)善悪は、その社会の歴史や文化に依存し、文化の一部である。

私的な善悪とは、各個人に固有の善悪とその基準であり、個人の思想、信条、経歴、嗜好などに依存する。個人は、私的な善などの自分の思想信条などを、公的空間で主張する自由が存在する。そのような公的空間での情報交換(補足2)により、文化の一部である公的善悪が制御変更される。

前回の記事で、公的空間と連結して存在する窪みのような私的空間を考えた。個人が社会的に生きる空間である。私的空間の内側に、ホモ・サピエンス(動物としてのヒト)である自分が存在する。私的空間と公的空間のチャンネル(ボトルネックのような部分)の広さは、文化や言語環境などに依存するのだが、日本人の場合は狭い。「沈黙は金、能弁は銀」の民族だからである。なお“沈黙は金”は日本人の甘えの文化の一端を示す。

更に、社会全体に広がった公的空間が存在しない地域では、見知らぬ第三者は社会的対応をしてもらえない可能性が高いことを、中国における自殺見物や韓国におけるナッツリターン事件を例に説明した。そして、公的空間を持たない地域の政治体制に、他国(米国など)が武力を用いて介入し、民主主義という政治制度を導入しその後放置すれば、最終的には内乱となることをに、リビアのカダフィ暗殺とその後の内乱を例に言及した。

公的空間を持たない国などでは、近代社会において必須と考えられる、公正、真実、法治原則などが疎かにされる。そこでは、人間が生きるための命綱は大家族などの人的ネットワークとなる。国家のレベルでみれば、その地域は無数の部族や大家族などに分断されたミニ社会の集合となる。そこには、中世的帝国や社会主義政治のような、支配と被支配の政治体制のみが馴染むと思う。

一方、住民を構成する人々が互いに見知らぬ間柄であっても、パブリックな空間(つまり公空間)を持つ民主社会なら、上記生活上の諸条件が保証され、普通の生活が可能となる。尚、韓国の民主制も戦前戦後、外国から移入されたものである。(補足3)

2)一神教の国の公的空間について:

一神教の国では、人格神を崇拝する宗教が中心に存在する。そこでは、聖典に示された法に従う姿勢が、“公的空間の意識”の代わりをする。見ず知らずの人間の間にも、神の示す公正、真実、法治が基本的に尊重されるだろう。つまり、公的および私的善悪が聖典から移入され、民主的社会の初期的創造がなされると思う。しかし、民主政治と一神教は本質的に両立しない。

一神教の国々で、民主的公的空間の代わりをするのは、宗教的空間である。しかし、この場合根本的な問題は、「善悪は聖典に書かれており普遍的である」ということである。世界が如何に変化しても、聖典は変化しない。そして、公的な善悪基準は2000年たっても殆ど変わらない。変わるのは私的善悪のみである。特に厳格な一神教では、善悪に公的も私的もない。その結果、人々はやがて、聖典の善悪と私的感覚に基づく善悪(私的善悪)や外部世界の善悪(国際社会の善悪)との衝突の中で悩む。それが、現在のイスラム圏の難しい政治状況と関係していると思う。

例えば、一時エジプトを支配したイスラム同胞団のムルガーン・サーリムというジハード主義者が、テレビに出演して、「ピラミッドとスフィンクスを始めあらゆる偶像を破壊しなければならない」と語った。しかし、イスラムの法学者たちは、イスラム法典に依拠する限りイスラム過激派をイスラム教の信者と認めざるを得ないのである。(飯山陽著、「イスラム教の論理」 新潮新書2018年2月)(補足4)

文明国の現代人は、世界の国際的連携の中でしか生きられない。そんな中で、我々が、スフィンクスやピラミッド、更には、東大寺の大仏や金剛力士像までも破壊しなければならないという人たちと共に生きることは、奴隷として以外は不可能だろう。

その結果、それらの国々でも宗教から一定の距離をとる政治支配層を産み出し、その政治環境で矛盾を棚上げしている。キリスト教圏では、宗教そのものの変質や無効化が知識層を中心に進んでいるのではないだろうか。その結果、現在の欧米ではアンチクリストなる本などでも、許容されている。つまり、本を読む知的階層までは、宗教に対する姿勢は多様化している。そして、その証拠だが、現在のキリスト教圏やイスラム教圏のほとんどの国は、聖典の法から人定法を定めている。(「イスラム教の論理」、p26)http://blog.livedoor.jp/dokomademoislam/archives/49255343.html

3)欧米等外国では、聖典に書かれた理想論的善悪は、頭の中に知識としてのみ存在する。個人はその建前を言葉の上で記憶し、時々必要に応じて用いるだけであり、心はそれらに縛られてはいないだろう。勿論、非常に熱心な宗教家がいれば、その方は聖書の善悪をそのまま私的善悪としてコピーしている可能性はある。何れにしても、個人を動かすのは本音であり、建前は経済的或いは社会的な利益不利益を通してのみ、個人に影響を及ぼすのだろう。それが西欧のリアリズムの本質ではないだろうか。

つまり、一神教の国々では、公的善悪が宗教的善悪から離れて、未だに人々の心に樹立されていないのではないのか。それが、自立した西欧の人々の真の姿であり、中国人の自立した姿と本質的な部分で似ているのである。本来公的善悪は人々の心の中にあるべきだが、それが不十分な欧米では、細かく法律で明確化することで問題発生を避けているのである。

人間が社会を作って生きるのなら、厳密な意味では個人は自立していない。その中で個人の尊厳を保って生きるには、社会の原則(善悪)と個人の原則(善悪)を合わせ持つことが必要である。日本人は、その社会性を私的空間と公的空間の両方を持つことで、実現している。欧米人では、それらに対応するのは私的空間と法的知識である。また、一部の公的善悪は、西欧人の中ではマナーとして存在するだろう。しかしマナーは着物であり、肌ではない。

日本は法を軽んじるところがあるが、それは公的善悪或いは公的道徳がしっかりと存在するからである。(補足5)それは、柔軟な社会であり、西欧から見てわかりにくい社会でもある。一方西欧社会で、法が細かく厳格に書かれているのは、公的善悪がしっかりと構築されていないからである。公的善悪が構築されていない国家は、問題解決を法と武力で行う。日本人はそれをしっかりと頭に入れておくべきだと思う。

(以上、社会学の素人ですが、チャレンジしてみました。批判等歓迎します。)

補足:

1)ここでは、形容詞としての「善」と、行為概念としての「善」と、それを人間の行動空間に展開した善的行為の集合も、全て「善」と表現する。

2)公的空間での情報交換とは、現代ではマスコミなどでの報道、国会などでの議論、街頭でのデモなどである。日本では、マスコミは偏向し、国会は田舎の世襲政治屋に占拠されている。それでも尚、街頭は静かである。街頭を静かにさせるには、大衆にパンとサーカスを与え、テレビで健康番組とクイズ番組を放送するのが良い。

3)現在の韓国の民主主義政治も、外国から移入されたものである。日本帝国の支配下では、内地在留の朝鮮人には選挙権が与えられ、朝鮮人衆議院議員も誕生している。他に貴族院議員も数名誕生している。敗戦の時白紙となったが、朝鮮地域の選挙区設定が予定されていた。その後、韓国には米国による李承晩政権が作られた。

4)例えば、日本のキリスト教の信者を名乗る人に、奈良の大仏など破壊すべきではないのか?と問えば、その通りだという人は少ないだろう。それは単に、現在のキリスト教が堕落しているからである。キリスト教もイスラム教も、神は同じヤーヴェ神であり、モーセの十戒の最初の二つの戒めには、ヤーヴェ神を唯一の神とすることと、そのために偶像崇拝を禁止することが書かれている。

5)交通ルールに対する姿勢を例に説明すると、日本は円滑で安全な交通を重視するが、それを達成すべく作られた交通規則を適当に無視する人は多い。数年前、古屋国家公安委員長が、「安全な道路での制限速度20km/h超過を取り締まるのは疑問だ」と発言して問題となった。日本では法の目的を意識し、公的善悪の中に織り込んで運転している。法の中の数値は、単なる目安に過ぎないのである。

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