2019年3月21日木曜日

西欧的組織運営に適合しない日本文化

一週間程前に「身の程を知る日本人」と題して記事を書いた。しかし、その考え方は若い世代や外国文化圏の方には分かりにくいだろう。そこで、もう一度自分でも考えを整理しようと思い、この文章を書くことになった。後半では、日本における組織運営の欠陥について、その延長上で考えてみた。(以下は、あくまで素人のメモとして書いたものです。)

1)日本人の多くは、大自然の中の小さい自分を自覚している。そして、そのように自分を観察する視点を持っている。それが前回言及した日本人の心に定着している「身の程を知る」道徳文化である。この典型的な日本人は、自分が外部に働きかけることよりも、外部世界への調和に高い価値を置く。

この文化は、神道に由来すると私は考えている。日本人は、自分ではあまり気が付いていないのだが、神道に根ざした文化の中で生活している。そして、世界の中の自分を、自身の外から眺める習性を強く持っている。

神道は、外国の方には分かりにくいだろうが、それを理解するには深沢七郎の「楢山節考」という小説が助けになるだろうと思う。簡単に粗筋を補足に書く。(補足1)自分の誕生から死までのすべてを大自然の神に委ねる信仰だと、私は理解する。

この「身の程を知る」という生きる上での規範は、富者と貧者の区別なく、社会的地位も超えたもので、大自然を司る神の意思の下ですべての人間は生きるという信仰であり、道徳文化である。この「自己主張よりも周囲との調和を重視する」民族は、日本人以外には、大きな集団としてはないかもしれない。(補足2)

日本では、この道徳規範のために、他人を批判することは勧められない。自分も他人も所詮小さい存在であり、他人の批判は身の程を知る人間のすることではないからである。これは美点のように見えるが、西欧規準で設計運営される組織の世界では、大きな弱点となると思う。

競争が人間世界の本質であれば、この考え方では、未来の生存が困難になる可能性が高い。批判とその応酬がが議論であり、個人にしても組織にしても、生き残りの為には必要である。「身の程を知る」規範は、神が本当に全てを支配するのなら、或いは、世界が進歩の限界に達し定常的になったとすれば、賢明な考え方だろうが、そうでない場合は弱点となる。

2)その弱点について、以下具体例をあげる。

議論による合意形成の困難:

日本人は立場の異なる相手との話し合いを嫌う。競争や闘争が始まる可能性が高いからである。これは、議論の習慣が日本人の中に無いことと等価である。

議論は、言葉は道具であるという考え方が出来ないと難しい。しかし、日本人は言葉には、霊が宿るという信仰をもっている。言霊信仰である。(補足3)その言葉の重み故、有り難い言葉(お経や定着した標語の類)以外は、口に出すことをためらう。その結果、議論なき合意を目指すのである。(補足4)

日本人の発する言葉の中で「私は」とか「あなたは」という主語のない文章が多い。「私は」で始まる言葉を公衆の門前で言うことは、神への挑戦のように受け取られる。「代議士の選挙演説ならともかく、そんなことを言う身分か?」という視線を受けるだろう。(言葉には出さないだろう。) 言葉の重みと、身の程を知る謙虚さ故、自分の考えを言葉に出すことを怖れるのである。(補足5)

西欧型組織への不適合:

文明の発展は、人間を組織化して成し遂げられてきた。現在の世界は、会社から国家まで、西欧的組織で形成されている。そのプロセスで、自然と調和する人間の姿は無くなっていく。文明は人工的環境であり、そこで生きるには精神的順応が必要である。

組織の運営は、弱点克服(弱者及びマイノリティの切り捨て)と新規発展の両方を議論し、その実行によりなされる。組織の最終意思決定は、そのトップが行う。この人間集団の組織化と、組織内での議論で進行方向を決定する戦術は、「身の程を知る」日本文化とは調和しない。(補足6)

グローバルな競争の世界において生き残る為には、この日本文化との不適合を自覚し、克服しなければならない。それは、自分たちだけでは無理かもしれない。

この組織における不適合な日本人の姿は、日常的にテレビ等で放映されている。何かの問題が生じた時、その原因が追求されることを嫌い、組織の責任者数名が揃って頭を下げる光景である。この様子を滑稽だとか、ふざけているとか思う人間は、日本にはあまりいないのである。

事件や自己の責任を個人に特定することを好まず、組織の連帯責任として希薄化し、最終的に逃れる方法を模索するのである。この連帯責任で話を終わらせては、組織は腐敗し潰れてしまう。そしてことの本質が明らかにならず、失敗に学ぶことができない。

重大な事件等の場合、日本でも個人がむき出しにされ調査されるだろう。それでも、特定の個人の失敗や犯罪として、明確に原因を洗い出せない場合が多い。多くの者が各段階で“印鑑を押している”場合でも、それだけ精査されたという訳ではない。それら書類は、学校の骨格標本のようなもので、本質はそこには残っていない。

このようなケースが国家の最高のレベルでも起こる。最近裁判が始まっている森友問題においても、残された書類だけでは西欧的国家組織において組織の系統にそって判断が積み重ねられている様に見えるだろうが、それは本質ではない。実際はトップの意向か威光が、組織全体の”空気”を創り、その空気に支配された組織が決定したことであり、一個人の責任とするのは酷である。

従って、日本の官庁では決済書類の保存期間を極めて短くしている。出来るだけ具体的な書類は廃棄して、骨組み的な書類のみを残すのだろう。更に、歴史の捏造や隠蔽をし、異常事態は天災的な出来事として話を収束させるのである。事件や事故、或いはもっと大きな戦争も、全て天災のように民族の歴史に記述される。(補足7)

結論:
日本の汎ゆる組織の運営が、西欧のように上手く運ばないのは、その日本文化と西欧型の組織とその運営方法が調和的でないからである。この日本は人類の文明が進化する中で滅びゆくだろう。上手く行っも、ギリシャやローマ(失礼だが)のような遺跡的国家になるだろう。

補足:

1)深沢七郎の名作「楢山節考」は、主人公のおりんという70歳を迎えた老婆が、死を人生の成就として受け入れる姿を描いている。家の跡継ぎに背おられ、信仰の対象である“楢山”の頂上付近に行き、そこで座り凍死する。その“楢山参り”の前日には、その集落の人々と伴に小さな宴を開いて、門出を祝うのである。
つまり、自然の中に生まれ自然の恩恵で生きた人間が、自然に帰るのである。この風習は、作者の創作だろうと言われている。しかし、それが理解されるのは、日本人の心に神道が深く根ざしていることを証明している。(繰り返すが、その神道は伊勢神道ではない。)

2)仏教と神道は調和的関係にあるので、仏教圏の中小国にそのような国があるかもしれない。仏教は、「生病老死」の四苦の本質を理解し、そこからの開放(つまり解脱)を目的とする宗教だと理解する。この世(現世)の悩みは、全てその形ある自分の身体に関係する。しかし、自分の本質は精神にあるので、その精神の救いは形ある身体とその欲望を否定することにあるはずと考えるだろう。 その身体を虐める修行の果に、自然の中に消滅する自分を感じるトランス状態を解脱というのなら、上に紹介した楢山参りの目指すことと同じである。鎌倉時代から仏教の殿堂である比叡山の千日回峰行もその一つだろうし、四国88ヶ所の巡礼参りもその大衆版だろう。

3)受験生のいる家庭では、落ちるという言葉を口に出さないようにする。多分、老人のいる家庭では、4月2日には祝の行事は行わないだろう。42は「死に」と読めるからである。般若心経は意味がわからなくても、ありがたく聞く。例は山程あるが、それでも「言葉に霊が宿る」という指摘を受け入れる人は殆ど居ない。

4)西欧的交渉においては、双方が論理に基づき自己の正当性を主張する。一方、日本人同志の交渉では、双方が中間点(落とし所)を探す。

5)因みに、私自身も専門外のことをブログ記事に書くにあたって、かつての同業の先生方の「専門家でも無いくせに・・・」という嘲笑を意識した。しかし、その昔の専門分野での一定の自信と、権威筋から遠い存在であったので、その圧力は跳ね除けることが出来たのである。

6)日産の経営が傾いた時、カルロス・ゴーン氏がルノーから派遣された。彼が行ったことは会社内の弱者(非採算部門)の切り捨てである。日本人経営者がそれを出来なかったのである。シャープも多分同様だろう。今回はスキップするが、この日本文化では、汎ゆる組織でミニ天皇が生まれる可能性がある。東芝が傾いたのは、ミニ天皇が米国ウエスティングハウスを買収したからだろう。 尚、現在西欧社会がマイノリティーの権利保障を問題視しているのは、元々の弱者切り捨ての社会における反作用である。

7)第二次大戦も終わってしまえば、天災のように記憶されるのみである。責任者は居ないし、失敗の理由も公的には明らかにされない。「平和のありがたさ」を後世に語り継ぐことしか出来ない。一般国民は、軍備は戦争をするものであり平和の敵であると考える。「平和が軍備とそれによる外交によりもたらされる」という論理は、まさにコペルニクス的転回というべきである。与党と官僚は、ごまかしと隠蔽により、ミサイル開発するしか方法がないのである。

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