2019年5月12日日曜日

日本に文化大革命の必要性:カルロス・ゴーン氏の言葉と社会組織の開放化

退職し、ブログを始めてもう6年になる。日本の弱点などで自分に見える部分は、ほぼ書き尽くした。似たものを異なった商標で再度売るようなことになるが、上記表題(google検索を意識しすぎかも)でもう一度日本の弱点について書くことにした。上記レベルのことでも、整理・理解・実行するとなると、困難な組織がほとんどだからである。

1)MAG2NEWSの5月5日の記事に、「あるパネルディスカッションの席で、「日本とフランスの違い」について、こんな興味深いことを言っています」と、日産のゴーンさんの言葉を紹介する記事があった。当たり前の日本分析なのだが、それが新鮮に聞こえたらしい。

日本では、いったんトップが決断を下したら、それ以上の議論は起こらない。従って、日本でボスになるというのは楽なことだ。ただそれは(その組織にとって)危険で、誰も止めないので間違った決断をストップするのが随分遅れる。一方フランスでは、「皆さんよく御存じの通り、決断が下されたときから議論が始まります(会場大爆笑)」という内容である。

そしてこの記事を書いた人は、「日産のV字型復活」は、社内に機能横断的なチームをつくって進むべき方向をさぐり、若手を参画させて発言・活躍できるようにしたからできたと分析する。https://www.mag2.com/p/news/396845

いったい何処の会場なのだろうか。もし、会場が日本だったら、大爆笑とはどういう意味なのか?多分、下で働く人たちが影で上層部の悪口を言っている時、似たような話がよく出るのだろう。そして、その多勢の人たちの感覚を経営に活かせたとしたら、日産はあのような事態にはならなかっただろうし、日本の今日のような低迷はなかっただろう。

上記記事には、ゴーンさんの言葉とともに、日本の優秀な経営者として本田宗一郎や松下幸之助が紹介されている。本田宗一郎の言葉として引用されているのは、「情報は常に現場にあり、課題解決のヒントも現場にある」という言葉であり、上記ゴーンさんの言葉と似て居る。トップが下から情報を得ることの大切さに言及している点である。

2)戦後直ぐに日本の再建が始まったとき、多くの企業が創業され、或いは、小さい企業が大きく成長した。その官界や旧財閥以外から大企業を育てた人物は、例えば上記本田宗一郎のほか、井深大、佐治敬三、盛田昭夫など、東大以外のしかも理系人間が多い。(補足1)

ホンダ、ソニー、サントリー、パナソニックなどが現在でも健全な企業であり続けるのは、創業者の精神が残っているからかもしれない。一方、最近の成功した創業者には、世界的富豪の孫正義や柳井正など、日本社会では周辺的な環境に育った方が多い。

つまり、本来日本の社会をリードすべき人たち、名門大学の経済学部や法学部などを卒業された方々は、現在日本を建設する側にではなく、衰退させ破壊させる側にあるようだ。一体、何故なのか?

上記の創業者の方々は、理系の現場から会社を作り上げたので現場を知っている。しかし、文系の経営学や経済学を専門とする人たちは現場を知らない。本田宗一郎が言ったように、大事なこと全てが現場に存在するのなら、そこからの情報を十分正確に収集し分析してデータを得なければ、優れた経営学や経済学の知識など役にたつわけがない。

それが、日本の大企業、東芝、シャープ、日産などの苦境を説明するだろう。例えば、東芝は元々経営者として優秀だった西室泰三氏が中心になって、米国の原子力発電所メーカーウエスティングハウス社の買収を決断した。それは、原子力がエネルギー源となる筈の未来において、世界のトップ企業として成長させる優れた作戦であった筈である。

それが大失敗となった原因は、恐らく、そのウエスティングハウス社に出向いて、現場で指揮をとる人物が東芝にはいなかったことだと思う。NHKだったと思うが、当時のウエスティングハウス社の人たちがあまり仕事をしていないのに給与をもらい、先を案じていたと報道されていたのを記憶している。

取締役会と大株主など会社の持ち主との間に情報のフィードバックループ(以下FBループ)がなかったのだろう。半月ほど前に、米国の大株主は国家行政府、大会社執行部などの評価システムとして機能して居る可能性について述べたが、それは両者にその会社の経営や人事に関するFBループを持って居ると言う意味である。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/04/blog-post_12.html

兎に角、密室状態の執行部では、国家も大会社も、破滅の可能性が大きくなる。(補足2)

3)社会を形成する凡ゆる組織とそれらの間の関係は、当然のことだがリアルタイムで動く。各組織の現場は、その環境変化に迅速且つ協奏的に対応を取る必要がある。各現場の観測結果(データ)は、即座且つ正確に執行部門(政治なら内閣、会社なら社長室)に送られ、そこでの決断に利用され、その決断に基づいた行動の結果は素早くフィードバックされなければならない。

ゴーンさんが言ったように、トップの出した結論に何の異論も出ないというのは、トップと現場との間に存在すべきFBループが、最初の段階で切れて居ることになる。執行部が閉鎖空間となっていては、組織の舵取りはトップの直感というか丁半博打に任されることになる。それに組織全体が付き合うというのは、愚かなことだ。

日本社会では、組織での上下関係が、そのまま私的人間関係の上下関係となる。そのため、川の流れと同様、上から下には情報が流れても、下から上には流れにくい。それは、儒教的価値観が社会を支配する東アジア全体の弱点である。

西欧の考え方では、会社など機能的組織(ゲゼルシャフトと言う場合がある)においては、組織とそこでの上下関係は機能発現のためにあり、私的な人間関係とは(理想的には)無関係である。この人間の時間を公私に二分割する知恵をアジアは持たない。

西欧文化の産物だけを、哲学抜きに形だけ受け入れたのでは、機能障害に陥るのは当然だろう。会社の玄関を朝掃除する中小企業の社長は、会社は機能的組織であることや、上記FBループの必要性を、論理ではなく直感で理解しているのだろう。(補足3)

日本型組織でも何とかその欠陥を埋め合わそうとする試みは存在する。その一つが会社で行われる飲み会だろう。アルコールの勢いを借りて、一時的に上下関係にある二つの層の間でFBループを作るのである。その結果、亭主は家庭でまともな役割を果たせなくなる。情けない話である。

4)日本の文化大革命:

上記FBループの遣り取りは全て定まったプロトコル(言葉の定義と手順の約束)によりなされなければならない。そのプロトコルに普通の日本語は向いていない。言葉も上下の関係を反映するように出来ており、不用意な言葉は儒教的上下関係を破壊するきっかけとなる。「沈黙は金、能弁は銀」が自己防衛法として日本文化に定着した理由である。或いは、日本語と日本文化は、不可分の関係にあると考える方が正しいだろう。


FBループのモデル:https://www.sparkpost.com/resources/email-explained/feedback-loop-fbl/

日本の文化大革命とは、言葉が純粋な情報伝達の道具としての役割を果たすように、人間関係と言葉の両方を新時代にふさわしい形にバージョンアップすることである。個人が、各組織の構成員として権利を持つとともに、組織が正常に働くためにフィードバックする義務を持つことを、そして、議論が成立するためには互いに相手の人格を尊重することが大事であることなど、実践的に義務教育から教え込むことである。

尚、日本語の弱点について以下の記事に書いたが、そのうちのかなりの部分は、主語や目的語を明確に口にだすこと、そして、話す相手側の人格を尊重すること(儒教的改悪を廃することなど)で、改良される可能性がある。https://spin-chemistry.jp/NC/chieb/kotoba.html

結論として、組織が正常に機能するためには、その組織が属する社会に向けて開放され、組織構成員はどこかのレベルのFBループに参加し、議論などを通してその運営に参加しなければならない。つまり、情報のフィードバック・ループ(FBループ)で社内外と繋がった組織でなくてはならない。その時、あらゆる部分や個人は社会の中にあってリアルタイムで評価される。そのように、文化と言葉を再構築することは大革命と言えるだろう。兎に角、日本文化を新しくバージョンアップしなければならないと思う。(補足4)

補足:

1)東大には優秀な若者が集まる。そこから、優秀な創業者や政治家が出てこそ、教育がまともだということになる。結果は、全くそのようにはなっていない。日本では、高学歴な人ほど面白くないようだ。だいたい、東大法学部卒の人気就職先が霞が関だというのは、共産圏の国ならともかく、異常だと思う。何故なら、官僚とは、上からの司令で動く仕事だからである。もしそうではなく、日本が官僚独裁の国だとすれば、霞が関が東大生の人気就職先であることもある程度理解できる。しかし、その場合は日本の政治は屑同然だということになる。どちらにしても、日本はまともではない。
一方、理系人間は普通、事実に対して謙虚である。そして、論理展開に慣れて居るので、言語の定義と情報の正確な伝達などの訓練がされている。

2)現在の世界政治でも似た例があるが、中国の大躍進運動がその典型例である。閉鎖的な共産党独裁政権において、一人の人物が皇帝的に権力を掌握した場合、その周囲は現場の情報も議論もない真空の様な状況となる。その結果トップの判断は丁半博打的になり、いずれ破滅的結果をもたらす。

3)江戸時代身分を超えての直訴は死罪の対象となった。安定の時代には、組織の機能改善よりも、安定性を最重要と考えることになる。その場合、言葉は上意下逹の片方向の意思伝達のみに用いられる。更に、言葉自体もそのように変化するだろう。今日のテレビ(多分NHKのローカル)で、田村意次の話が放送されていた。重い年貢に耐えかねて、軽減を直訴した人物に対して、直訴厳禁(切腹が当たり前)の当時の慣習を無視して、正しく情報をつたえたその人物に香炉を進呈したという。

4)機能社会を考える場合、もっと生体に学ぶべきかもしれない。例えば心臓は、血液を全身に送る役割を担って居るが、その負担が重くなった時、ホルモンを分泌することで腎臓に信号を送る。利尿ホルモンである。このように多くのFBループがホルモン分泌という形で作られているようだ。

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