2019年8月25日日曜日

国家と国家の関係は、信頼感を失えば野生の関係に戻る:日韓関係

人類のこれまでの歴史は、適者生存というダーウイン的原理が支配してきた。つまり強者(強国)が弱者(弱国)を支配するのは、自然原理の発現である。十分時間的に離れた後世に、その国際的ルールや善悪の基準等で、歴史的結果について再評価するのは、国際政治の場では無意味である。

歴史修正主義とは、そのように歴史的結果を再評価し、現在の政治に反映させようとする姿勢を意味する。その動きは国際社会の秩序を破壊する可能性があり、体制の安定維持を重視する人や国から、非難されるのは当然である。

歴史の議論は、各個人のレベルでは自由に行える。それは学問的な歴史修正に至る可能性があるが、それも学問の自由の範囲内である。しかし、正当なものかそうでないかは別にして、その歴史修正の動きが世論形成にまで及ぶと、これまでの友好関係等を破棄するなどの、国家の行政(外交)に影響する可能性が出てくる。

それらの動きを始めるのは、他国からの非難などを覚悟の上なら国家が独立している限り自由である。つまり、韓国が日韓併合を不正義とみなし、それが前提となっている日韓基本条約も、破棄する自由は存在する。それに対して日本がすべきは、その批判に終始しないで、韓国から予想される様々な外交的あるいは軍事的行動に備えるべきことである。

徴用工問題で賠償を要求するのは、現在までの日韓の友好関係を背景にした場合、ありえないことである。しかし、韓国が日韓の友好関係を破棄する覚悟なら、当然あり得る話である。その場合は、その話が捏造であれ何であれ、力と力の対決でしか、互いの主張に折り合いはつけられないだろう。

ルトワックの「戦争にもチャンスを与えよ」や、古典のクラウゼビッツの戦争論にあるように、外交の延長としての戦争しかその解決は出来ないのである。(補足1)そこで、日本国民がしっかり考えるべきは、戦争に如何に勝つかということである。その時点で、「戦争は悪である」と考えるのは知的怠慢である。善悪は、本来国境を跨がないのだ。

補足:

1)領土紛争が、最終的な決着が戦争以外によってはなされ得ないケースとして代表的例だろう。例えば、中国は尖閣だけでなく、沖縄に対しても日本の領有権を否定している。これらは話し合いをいくらしても解決しないだろう。もし、核心的利益となれば、沖縄は中国にとられるだろう。そして、その次の段階は小笠原だろう。既に、その演習をサンゴの密猟という形で行っている。その場合、日本国民の間での戦争アレルギーの醸成は、熨斗をつけてそれら領土を献上する準備である。

0 件のコメント:

コメントを投稿