2019年12月6日金曜日

天安門事件と中華思想:世界は中国の本質を知らない

天安門事件は、1989年6月4日に中国北京の天安門の広場周辺で起こった大虐殺である。それから30年経過した。その前後の出来事を含めて、及川幸久氏の解説動画を観た。わかりやすい解説であるので、推薦したい。
https://www.youtube.com/watch?v=kLxrCrV_H6w
https://www.youtube.com/watch?v=0mLddz38twA

上記二本の動画に触発されて、記事を書くことにした。ここでは、蛇足になるかもしれないが、その前後の中国や日本をもう少し広く見て、まとめてみたい。

1)天安門事件(六四天安門事件)



1985年にソ連共産党書記長になったゴルバチョフが、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再構築)を唱えて、民主化の方向に舵を切った。それに呼応する形で、中国の共産党総書記だった胡耀邦が民主化の方向に舵を切るが、共産党保守派の反撃で1987年1月失脚し、1989年死去する。

胡耀邦の追悼集会から始まった民主化要求の集会は、ゴルバチョフ訪中の5月15日頃、50万人規模になり、北京市内の移動さえも困難になる。しかし、鄧小平は渋る趙紫陽を無視して、戒厳令布告を決定する。ゴルバチョフが中国を離れたあと、19日李鵬首相を責任者にして戒厳令が布告される。

その日、温家宝を連れた趙紫陽は、天安門広場でハンガーストライキを続ける学生を見舞う中で、これから起こる惨劇を想像し、涙を見せて学生たちにハンストの中止を促したが、学生たちには真意が十分に伝わらなかった。(以上Wikipediaから)

趙紫陽は事実上5月20日に解任され、6月4日大虐殺が人民軍兵士によって行われた。なお、鄧小平は総書記などの最高のポストにはつかなかったが、党中央軍事委員会主席のポストは放さなかった。名目上の最高指導者は、何か失敗をした場合には命も危なくなる。しかし、軍を握るものが、結局、最高の権力者だからである。鄧小平のそれまでに得た教訓なのだろう。

1989年の天安門事件のあと、鄧小平は、「中国では100万人が死んでも大きな暴乱とはいえない」と語ったという。これは毛沢東のことばを意識した発言である。毛沢東は、中国を1949年に建国したのち、大躍進運動や文化大革命で、一億人近くの死者をだした。そして、「1億や2億死んだとしても、どうってことはない」と言ったと言われる。鄧小平の上記発言は、自身の政治活動における死者全てを合計しても、大した数ではないと自己を弁護しているのだろう。(補足1)

中国の恐ろしさを何よりも端的に表現した、それまでの最高実力者二人の言葉である。

 

2)天安門事件でいったい何人が殺されたのか?



天安門大虐殺(Tiananmen Square Massacre)での死者数については、謎のままである。それどころか、中国政府は、事件を隠蔽し続けるだけでなく、歴史から消し去るつもりのようである。天安門大虐殺の30周年記念日を前に、Wikipediaの閲覧を、これまでの中国語だけでなく、全ての言語で禁止したという。(上記及川氏の動画)

ある記事には、党はこの事件のあと、兵士を含む241人が死亡し、7000人が負傷したと発表したと書かれている。https://www.businessinsider.jp/post-192112

しかし、それは少なすぎる。この事件を目撃した日本人ジャーナリストが証言している。

  フジテレビの平井文夫氏である。平井氏によれば、中南海の塀の上から数十名の軍の兵士が自動小銃カラシニコフで、天安門の群衆に向かって銃撃し殺害していったという。その銃撃だけでも、相当数の死者が出た筈である。

平井氏は、「中国共産党は事件による死者が319人と発表しているが、その後の報道を見る限り1000人単位の人が犠牲になったのは明らかだ」と記事に書いている。https://www.fnn.jp/posts/00379830HDK

この現場を取材した記者の証言、学生たちを説得する趙紫陽の涙と、事件後の鄧小平の上記言葉などから、数千人規模或いはもう一桁上の死者が出ただろうと、想像される。数百人の死者なら、「100万人死んでも」という表現は使わない。

BBCの報道によれば、約一万人が殺されたと言う。この数字は、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日付の極秘公電で英国政府に報告した。大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた」と説明している。
https://www.bbc.com/japanese/42482642
https://www.bbc.com/news/world-asia-china-42465516

因みに、NHKのクローズアップ現代という番組では、天安門広場での死者数はなかったと放送したという。NHKは、日本国民から多額の視聴料を奪いながら、どこかの国のプロパガンダを流していたのである。(補足2)

3)西欧社会の中国制裁と、その解除に努力した日本政府



欧米民主主義の国々は、天安門事件に対して経済制裁で応じた。日本も短期間、西側の制裁に加わるが、1年でその民主主義社会の輪からいち早く離脱する。

あの海部総理は、西側首脳として初めて事件後の中国を訪問し、その上ODA(政府開発援助)を再開した。(1990年7月)更に、あの宮沢内閣は天皇を訪中(1992年10月)させ、中国の国際社会への復帰に尽力した。

これらの背後にあるのは、何なのだろうか。戦争中のことに関しては、日本は中国に対して負い目があったのは事実である。しかし、それは中国共産党政府(中共政府と略記)に対してではなく、中国の人たち一般に対してである。もし、天安門で起きたことが全ての中国の人に良かれと思うのなら兎も角、単に、その時の政府に擦り寄る外交は間違いだと思う。

第一に、すでに中共政府とは、日中平和条約が締結されている。平和条約は、その時点で、双方が未来志向の関係に切り替えるという合意である。その後は、対等の関係で外交を展開することが可能な筈である。

平和条約に先立つ日中共同宣言締結の時、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。

この周恩来の言葉は、何時の時代でもどのような国家間の関係でも成立する素晴らしい言葉である。少なくとも平和条約締結後には、両国間の外交は両国の人民のためになくてはならないと思う。海部と宮沢は、上記の件を含めて、愚人と評価されてしかるべきだろう。

そして、これは言うまでもないが、過去の戦争で日本帝国が戦った相手は、中国国民党政府であり、中共政府ではない。毛沢東は、日本軍の国民党政府との戦いに対して感謝の言葉を述べたと、何かの書物で読んだ記憶がある。

日本はその後も過去の戦争に対する負い目からか、中国や韓国に対して卑屈な外交を続けた。この日本政府の国際政治に関する常識の欠如、戦略的思考のなさに、腹立たしく思う。日本の政治家の質が劣悪なことが原因の一つだろう。(補足3)自民党政府は、町内の人間関係である「外交」と同様の感覚で、国家間の外交をしているのだろう。国益とか戦略とかいう言葉をオーム返し的に用いるが、実際の外交にはそれらは皆無に近い。(補足4)

現在、中国は西欧的近代社会のルールを長年無視し、世界で第二の経済大国になり、世界における覇権を主張するようになった。知的所有権の無視、技術の不正な取得、借金付け外交と恫喝外交など、国際ルールを無視する姿勢や、国内問題とは言え、ウイグルやチベットなどでの人権無視も、世界のルールに違反している。それに米国や欧州の国々は、団結して対決する姿勢を示している。

それにも拘らず、今回も西側諸国で例外的に、日本が日中関係の緊密化に動いている。来年には習近平主席を国賓として、日本に招待するようである。将来、日本を支配下に収めれば、天皇家は消えるだろう。その天皇に、習近平を会わせるとは、安倍は一体どこの国のために働く総理大臣なのか。

4)中国の政治文化の特徴とその理由



中国では、自分とその一族が全てである。この一族の横の繋がりが全てであるので、一族からの出世は一族に潤いをもたらす。汚職や不公正な人事は、一族への還元行為としても当然のことである。このような話は、小説「ワイルド・スワンズ」にも描かれているし、以前テレビに良く出ていた柯隆氏も語っていたことでもある。

従って、法は権力者の道具であり、一般民にとっては手かせ足かせに過ぎない。また、政治などを議論する私的空間はあっても、「公の空間」はない。公の空間での政治の議論や示威行動は、従って、時の政権への敵対行為である。それは、国家の政治を支配するのは中央の権力が全てであるからである。

しかしそれでも、一般民にとって国は、自分たちの生命を守る存在として大事である。その外部にある夷狄は、城壁内の全てを殺す機会を狙っているからである。そして、この夷狄に対する敵意と蔑視が、中華思想の根源である。

この様な境遇の被支配者であるから、“夷狄は文化を持たない人間以下の存在であり、自分たち「中華」のみが本当の人間である”という、「中華思想」が出てきたのである。中国史の歴史学者岡田英弘は、その様に書いている。「誰も知らなかった皇帝たちの中国」参照。

同書には、今でも“自分たちが唯一の人間であり、「夷狄」などは人間ではなく、殺しても奪っても構わないというのが、中国人の固く信じているところである”と書かれている。上に書いた毛沢東や鄧小平の言葉の背景には、このような人命軽視の中国文化があることを我々日本人は肝に命ずべきである。

(写真家有賀正博氏は、「中国で偉大な指導者として崇められる人は、自国民の命を軽く考える人である」と解説をしている。https://www.photo-yatra.tokyo/blog/archives/219)

中国の政治的秩序は、天安門マサカーが示すように、恐怖政治により担保されたものであり、倫理や法といった、人の心に内部基準として設定されうるものには依存しないのである。西欧社会も日本のそのことを十分知らないと思う。

一方、西欧社会や日本には、人々の心には「公(おおやけ)」が存在する。一般民までが「公の空間」を意識するには、神を信仰するという宗教的背景がなければならない。

法や倫理は、神の代理的なもの(proxyという単語がふさわしいのだろう)として、心のなかにセットされる。それが、近代西欧社会の秩序の源である。

しかし中国の人たちは、儒教や道教はあっても、神を持たない文化に生きてきた。そして、親や支配者に対する忠義はあっても、第三者の困難を防ぎ思いやりを強いる「公」という神のプロキシはない。(補足5)従って、日本と中国の間の秩序ある平和的な互恵関係は、細部にわたる文章となった契約で築くのが正しいだろう。

長い人類史のなかでは、一般大衆は食べることに汲々としてきたのが現実である。その大衆に、経済的に一定の余裕が出てきたというだけで、政治文化の中に「公空間」が生じると期待するのは、元々無理な話である。公空間の発生は、民主主義社会の前提である。

「経済発展により中国は民主化の方向に進むと期待した」と、米国を中心とするグローバリストたちは言うが、それは非常に浅い理解か自分たちの強欲に基づくものである。

5)南京大虐殺のプロパガンダ:



その中国が西側の制裁緩和での結束を破る方法として行ったのが、南京大虐殺のプロパガンダである。1997年、米国在住のアイリスチャンにThe rape of Nankingを書き、天安門事件に対する世界の記憶を希薄化させることに成功する。

それは中国の考え方からすれば、一つの自然な選択だろう。日本から多少の不利益を被るとしても、それよりも大きな世界からの利益があると考えた戦略である。そこには、「真実は歴史に残ったものが真実であり、プロパガンダは真実を創造する手段である」という思想に基づいている。それは、司馬遷の「史記」以来不変の真理である。つまり、国際社会においても、生き残った方が善であり、滅んだ方が悪である。

既に上に書いたが、日本政府や経済会の人たちが、同じ文化の内部での人間どうしの付き合いと、価値の物差しが全く異なる国家間の付き合いを同じ様に考えるのは、致命的な間違いである。

補足:



1)鄧小平は、1931から毛沢東が率いる共産党グループに所属する。1952年、毛沢東により政務院の重要ポストを得て、1957年に、数十万人を冤罪で迫害する反右派闘争の指揮をとる。「100万人が殺されてもたいしたことではない」の裏に、もう一つこの件もあるのだろう。

2)翌日帰還する戦車の最前列で、戦車の進行を妨害する男性の映像が有名である。このピューリッツア−賞受賞の映像は静かな抗議であり、前日早朝の惨劇を忘れさせる危険性があると思う。この映像しか知らない人は、NHKの報道を信じる可能性がある。天安門事件といえば、この写真や動画が出されるのは、中国共産党には幸いなことである。

3)日本政界を劣悪な人材が牛耳るのは事実ではある。田園部出身の政治を家業とする二世、三世が、その地方の利権と直結した形で国政に参加するように選挙制度ができており、中央政界において安定な地位を確保するからである。

4)国益を第一に考えて戦略構想を創りあげ、それを下に外交を展開するという、戦前に作り上げた政治文化とシステム(シンクタンクなどを含めた)など全てが、過去の戦争と戦後の占領政策で奪われたままなのだろう。その再建が、吉田、岸、池田内閣あたりまでに行われなければならなかった。しかし、それが出来なかったのは、池田内閣あたりから、完全に金儲け主義に堕落してしまったからだろう。(或いは、戦前からそのような政治文化を学んでいなかった可能性もある。)

5)日本文化には神道や大乗仏教が根付いている。「お天道様」や「阿弥陀仏」は、ほとんど全ての日本人が心に持ち、通常は損得ではなく善悪や真偽を優先し、公のルールに従順である。そして、人を疑うことは罪悪であり、善意の推定が文化として根付いている。それは日本人の平和的だがひ弱な人間性の原因となり、戦略的思考などは特別な訓練を受けた者にしか存在しない。

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