2020年9月22日火曜日

何故数学を勉強するのか?チコちゃんは間違っている

毎週金曜日にNHKが放送する番組「チコちゃんに叱られる」は、日常生活で不思議に思う問題を取り上げて、チコちゃんと専門家が解説するバラエティ番組である。https://www.nhk.jp/p/chicochan/ts/R12Z9955V3/

 

先週金曜日の番組で注目されたテーマは、「なぜ数学を勉強しなければならないのか?」であった。チコちゃんの出した答えは「論理的な思考が身につくから」であった。(補足1)

 

この番組の内容が話題となり、紹介したネット記事も多い。その一つが、nifty ニュースで、その記事ではテレビ放送での解説を以下のように要約した。https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12189-20162412063/

 

小学校のときには算数、中学以降は数学と似ているようで全く違う学問である。算数は、日常生活で使うレベルの計算力を養うもの。対して、数学は問題を整理して答えを導く学問で、論理的思考を身につけるものであると解説した。

 

一般の人の感想として、納得したという声が相次いだ一方、「意外と普通な回答で拍子抜け」「もっとすごいのが来ると思ったけど普通だな」といったコメントもみられたという。

 

この後者の不満足に思う感覚には、根拠があるだろう。上記回答が間違っているとは言わないが、本筋の数学教育の目的からはズレているからである。それは後に書くとして、上記記事で面白い統計が紹介されているので、それを先ず紹介したい。

 

この記事の編集部が主要9科目のうち「最も嫌いなもの」を、全国の10代~60代の男女1,847名を対象に調査を実施したところ、数学が2位以下とかなりの票差をつけ1位となった。そのデータが別の記事にあったので示す。

 

そして記事は以下の文章で閉じている。

 

なぜ数学を学ぶのか疑問に感じる人も、チコちゃんの回答に納得した人は少なくないのではないだろうか。今学生の人は、数学への考え方を少し考えて取り組んでみても良いかもしれない。

 

番組の進行にそった内容を、詳細に紹介した記事もある。

https://tmbi-joho.com/2020/09/18/chikochan-reg106-3/#i

https://himantorend.com/chiko-sugaku/

 

2)数学だけでなく、中学校での義務教育の目的は何か?

 

義務教育の目的は、大きく分けて二つある。①国民を社会生活が送れるように、その社会での基礎的な文化を教育すること。②専門的知識を身に着けるための高等教育の準備として、その基礎を習得すること。小学校教育では、①の目的を主とするだろう。

 

中学校で各教科を学ぶ目的としては、①も当然だが、②の目的が大きいと思う。つまり、日本国が安全で豊かな経済力と自由と法的平等を維持するには、政治、経済、法学、軍事、科学、技術など、様々な専門分野での人材を育てる必要がある。数学教育は、その後半部分の人材教育における基礎となる。

 

人生の中で、社会に一定のレベルで貢献するには、自分の生きる専門の方向を見いださなければならない。中学教育は、得意の科目は、将来の高等教育や専門的仕事での基礎として学び、嫌いな科目も得意分野を知るために格闘すると考えて良い。それが②の目的の個人の視野からの解釈である。

 

繰り返すが、高等教育の基礎を学ぶ学校が、中学と高校である。その中で、数学は理系分野において必須の学問である。全ての人が夫々の価値観で、数学を勉強する目的を考えることは良いことだ。しかし、数学を忘れてしまっていても、その代わりに、人には負けない知識や技術を持つべきであるし、実際持っている人が多い筈である。

 

サイン、コサイン、タンジェントとか、2次方程式の根の公式なんか、忘れてしまっても良いのだ。中学の時、数学を嫌い違う道を探して大成した人にとっては、数学を嫌いになるために数学の授業があったと考えて、差し支えない。

 

3)問題の建て方にそもそもミスがある。

 

このテーマである疑問文とチコちゃんの答えが、論理的に噛み合っていない。この程度の論理的な齟齬は、日常生活ではそれほど問題にならない。しかし、科学や法学の議論では大問題となる。①「何故(中学で)数学を勉強しなければならないのか?」の答えは、日本国民の義務だからである。

 

この番組の趣旨に沿った疑問文は、②「数学は一般人に関して(或いは対して)何の役にたつのか?」であり、答えは「論理的思考力がつく」である。別表現では、③「(中学での)数学教育の目的は何か?」であり、答えが「論理的思考力をつけること」である。(補足2)この種の食い違いは、日本人にとって本当は非常に深刻である。

 

先週金曜日の「チコちゃんに叱られる」での疑問は「①の疑問」であり、その答えとして「②の答え」を持ってきたのである。論理的な数学に関する番組で、最初から非論理的な話になってしまったのである。

 

その非論理に引きづられてこの記事を書いたので、最初の読者の反応は「何理屈言っとるのだ!」というものだろう。「論理の無い国日本」の姿が浮き彫りになったような気がしている。

 

4)論理的思考力を身につけるには、英語を学んで日本語との違いを勉強すべき:

 

論文を書く仕事の人が、最初に先生から注意を受けるのは、たとえば、「美しい水車小屋の娘」という類の言葉(句)を書かないようにということである。何故なら、この句では美しいのは水車小屋か娘かわからないからである。

 

ここで一言言いたい。論理的思考力を身につけるには、言語をしっかり学ぶのが大事である。特に、日本語と英語の違いを知ることは、有益である。

 

英語で「美しい水車小屋の娘」を訳するとき、a beautiful girl in a water millか、a girl in a beautiful water millの何方かである。英語では美しいという形容詞は、その名詞の前にくるので、日本語のような誤解はない。つまり、英語は日本語よりも論理的思考に適している。過去のブログにこのような日本語の欠点については何度も書いた。その記事の紹介をしておく。

 

比較的最近のものとして5年前に書いた「日本語は真実を隠す:慰安婦という訳の判らない単語」という題の記事がある。その最初のセクションに、日本語の非論理性について書いたものを紹介している。この記事の全部を読んで欲しいのだが、その最初の部分を以下に転載する。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466514487.html

 

 

 

日本語を母国語とする人間だが、日本語の出来の悪さにはウンザリである:http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/iii2013.html

既に、(何度も)書いて来たことだが、煩雑であり論理の展開には全く不便であり、議論に向かない。従って、日本人は一定の知性を持つと無口になる傾向がある。そのため、(日本では)能弁より寡黙が人徳の要件である。つまり、沈黙は金、能弁は銀なのだ。しかも、緻密でない銀は、直ぐ黒く錆びるのだ。自分の能弁に溺れて多弁となり失言・詭弁の罠にはまってしまう可能性が高いのである。

 

 

(9月22日、7時半最終編集)

 

補足:

 

1)高校で学ぶ集合論は、論理的思考に欠かせない数学の一部門といえるかもしれない。そこで、積集合と和集合を学び、必要条件と十分条件を勉強する。しかし、別に数学で勉強する以前に、英語では「and」 と「or」の解説で学ぶことである。因みに和集合から積集合を除いた部分を、「exclusive or」とよぶ。

 

2)中学や高校での数学教育の目的は、理系教育一般の基礎技術としての数学を教えることである。

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