2021年5月15日土曜日

「何でもプロ化により堕落する」例:五輪を中止できないプロの5輪屋

社会の機能はその発展に従って多くの専門に分かれ、それぞれを各専門家が担当することで維持される。この傾向が進むほど、各専門家は全体的視野を失い、自己利益を優先することになる。専門の先鋭化と専門家の視野狭窄は、社会の老化の原因となる。その老化した社会の中で、自分の利益を優先する姿が堕落したプロの姿である。

 

典型例は日本の政治家であり、その地位は世代を超えて相続され、政治プロ化している。彼らは、視野が狭く、世界の政治経済全般を俯瞰する能力は素人よりも低い。これは日本国(日本社会)の末期的症状の主原因である。

 

1)オリンピック開催の是非:

 

今回のオリンピックの件だが、5月3日のTV放送だったと思うが、あるニュースバラエティ(補足1)で、橋下徹氏が「レベル3やレベル4の情況で流石にオリンピックは無理でしょう」と言った。しかし、自民党のワクチン対策PT座長・鴨下一郎氏は、オリンピック開催に執着する菅首相に忖度してか、オリンピック関係者と日本国民一般を分離して考えるとの自民案を披露した。

 

橋下徹氏とは、素人政治家として大阪府の財政を大きく改善した元大阪府知事である。(補足2)鴨下一郎氏は、元野党の日本新党から1993年に出馬し、政治家になった元素人政治家だが、その4年後には早々に自民党に入り、プロの政治屋になった人物である。2007年には、安倍改造内閣で環境大臣として初入閣、入閣後間もなく資産等報告書の記載の不備が発覚したことが早々とプロ化した証明だろう。

 

その番組の中だったと思うが、フランス在住の電子掲示板サイト2チャンネルの創設者であるひろゆき氏(西村博之氏)が、「オリンピックが中止になれば、オリンピック関連の職を得た人が失業するでしょう。高給で雇用されている彼らにとっては、そうなっては大変だから、開催に固執しているのです」という内容の話をした。

 

ひろゆき氏は、オリンピック関係者のための医療体制整備を考える人達を、オリンピックを国民の命に優先する姿勢だとして疑問の声を挙げている。「平和の祭典」も、プロ化した関係者が主役になると、堕落の祭典になってしまうのである。

https://news.yahoo.co.jp/articles/bd63e312c4f5e26d56f9ef85af704c8a43942a3d

 

菅首相の戦略は、”新型コロナがなんとか低いレベルの被害に抑えられることに賭け、オリンピックが成功裏に終わったタイミングで解散総選挙して2期目を目指す”のだと、誰かがテレビで言っていた。このままでは、最低の首相として歴史に名を残すので、一発逆転の切り札にオリンピックを使いたいということのようだ。

 

何れにしても、堕落しきったプロの政治家により、日本国がズタズタにされようとして居る。それを直感的に感じてか、日本国民の多くはオリンピックを中止すべきと考えているようだ。

https://www.yomiuri.co.jp/election/yoron-chosa/20210509-OYT1T50173/

 

 

 

2)プロによるその分野の堕落

 

アマチュア(amateur)とは、その分野を開拓し参加するが、職業の対象としない人を言う。アマチュアは、フランス語のamateur「それを愛する人」( one who loves, lover)に由来し、18世紀の西欧(英国やフランス)で 始まった考え方(精神、思想)である。そこには貴族の趣味という感じが存在する。しかし考えてみれば、人間文化の殆ど全ては貴族のアマチュア精神により作られた。

 

どのような分野でもプロ化により、ノーマルな人間の行いとしての軌道を外れ、異常なものに進化してしまう。プロ化すれば何でも堕落するのである。

 

例を挙げる。高度に発展した科学は、偉大なギリシャ市民のアマチュアリズム、知を愛する人達が築いた。「知を愛する」は、英語ではphilosophy(フィロソフィー )というのだが、明治時代の誰かが「哲学」という訳の解らない漢語に翻訳してしまった。都道府県名に名を残す「愛知」が本来のフィロソフィーである。(補足3)

 

アマチュアリズムとは、その分野への参加者が他人に比較して優れた成績を残すことを必死に追求するのは愚かなことだと考えることである。そしてその考え方を持つことが、その分野の本来のあり方を維持するのである。

 

科学は知を愛する人達のアマチュアリズムが支えているのである。成績を必死に追い求めると、個人は不正に走ってしまう。それは高度な「科学という文化」の中に紛れ込むと、高度な生命体の中の微量毒素のように働いて、科学の発展を遅らせる。スタップ細胞事件など数多くの捏造事件の発生の遠因は、科学のプロ化である。

 

科学と技術の分野で成功した人に送られるノーベル賞は、元々は金のない優秀な若い人に奨学金を与え、彼らから金の心配を取り除き、その分野の研究に没頭できるようにと、アルフレッド・ノーベルの遺言で作られた。

 

それが何時の間にか、ノーベルの遺産を運用するプロの人たち(その管理団体というプロ集団)の利権と絡んで、現在のような形になったのである。それは、既に職業化していた科学者の堕落を加速した。ノーベル賞獲得が世界における地位と栄誉の保障になるまで、その賞の価値が上昇したことと平行して、人々は科学と技術という二つの独立した言葉の意味を理解できなくなり、科学という人類の作り上げた優れた文化を忘れさった。(補足4)

 

3)スポーツはアマチュアの楽しむものである:

 

アマチュア規定がスポーツに持ち込まれたのは、1839年にイギリスで行われたボートレースのヘンリー・ロイヤル・レガッタでの参加資格だった。成文化されたのは1866年イギリスの陸上競技選手権大会である。

 

この情報の出典である日本大百科全書によれば、「アマチュアamateurは、ラテン語のamator(愛好家)という語に由来し、スポートsport(職場を離れて楽しむ)の語とともに用いられるようになった」という。

 

そのスポーツをプロ化し堕落させたのが、資本主義経済と絡んで発展したオリンピックだろう。たとへば水泳の選手の筋骨隆々とした姿は、まるでサイボーグ(改造人間)のようであり、彼らの記録とそれをめぐる争いは、人類文化の何を為すのか? 

 

そのように考えれば、オリンピックを開催して、経済的利益を得ようとする菅首相の姿は、異様な世界の視点からみればノーマルなのかもしれない。

 

オリンピックが、世界の平和と人類の福祉に貢献するとした場合、「オリンピックで重要なのは、勝つことでなく、参加することである」(クーベルタンの言葉)。従って、過度な商業主義を排し、もっとシンプルで何処の国からでも参加できる形で開催されるべきだと思う。

 

そのように考えた場合、インドやアフリカ諸国、ブラジルやチリなどの南アメリカ諸国などから殆ど参加出来ない形では、オリンピックを開催する意味がない。

(12時:三木谷浩史氏の記事追加、14時追加の編集)

 

補足:

 

1)ニュースバラエティとは、ニュースを専門にしながら視聴率のためにそれをお笑い番組的に変形した視聴者を欺く番組である。このブログでも屡々出てくる「そこまで言って委員会」は、最初はかなり真面目に最近の政治などについて議論していたが、そのうちにお笑い番組のようになった。TV局のバラエティ化の方針に唯々諾々として協力した人は最近退陣した。

 

2)元官僚で現在自民党参議院議員の太田房江知事の後を継いで大阪府知事となった橋下徹氏は、職員の前で「あなた方は財政再建団体の職員である」という類の挨拶をして、その深刻さと今後の財政健全化の方針を訴えた。プロの太田房江氏は、依然自民党政治屋の一角を占める。

 

3)英語のphilosophyphilは愛するとか相性がいいという意味で用いられる。たとへばhydrophilicは「親水性の」という意味である。その反対の意味の意味は、phob(嫌う、避ける)が受け持ち、hydrophobic「疎水性の」として用いられている。

 

4)科学は哲学の一分野、自然を対象にした哲学である。科学的発明の多くは、哲学者により成された。パスカルの原理、ピタゴラスの定理などのように、哲学者として有名な人の名前で数学や自然科学の原理が呼ばれているのは、哲学と科学の間に垣根など無かったからである。ニュートンも、イングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者とウィキペディアには紹介されている。一方、技術は何らかの目的が最初にあり、それを解決する方法として開発された方法である。発光ダイオードの開発でノーベル賞を与えられたのは、青色発光ダイオードを開発した中村氏や赤崎氏だが、最初に発光ダイオードを開発した米国人ではなかったことが、現在のノーベル賞の性質を雄弁に語っている。 

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