2021年7月10日土曜日

自治会運動は脱皮させ、ネットを利用した町内政治組織にすべき

日本独特の組織として、町内自治会組織がある。会員のほとんどは、現状、ゴミ集積場の掃除等の回り持ち以外は、必要性を感じる事が少なく、その他の様々な行事への参加には積極的ではなく、同組織の役員になることを考えれば忌避感覚の方が大きいだろう。今日の自治会活動は、恐らく過去の地縁共同体の活動を模倣する形で都会の団地などに持ち込まれたのだろう。
 

20世紀後半、資本主義経済の発展により生活様式が急変し、更に今日も様々な要因で変化し続ける社会の中で、昭和初期までの地縁共同体を模倣する現状は、何かに積極的に踏み出すことを嫌う、現状維持にバイアスが掛かる日本文化が背景にあるのだろう。
 

今回のブログ記事では、地縁共同体組織の過去の姿を原点にして、現代の大都会近郊での自治会活動のあり方、日本の政治文化への影響とその可能性などについて、素人ではあるが、これまでの体験を基に、考察・提言してみる。実態と違う地域(特に都会とその近郊)がある場合は、指摘していただけると有り難い。


 

1)昭和初期までの地域共同体のあり方:

 

日本の町村部での地域共同体の活動は、日常生活と密接に関係する面と伝統継承の面があっただろうが、明確な区別はできなかったと思う。例えば祭りは、現代的視点からは伝統継承となるが、当時の感覚では日常生活の必須の部分とも言える。

 

地域共同体活動には、当然参加すべきもの(半ば強制的作業)と任意で参加するものがあった。当然に参加すべきものには、火事や葬式のときの協力、道路改修や水路補修などの共同作業(普請)や祭祀などがある。

 

任意参加の活動に、結(ゆい)や講(こう)などがある。結は、労働力の相互貸借で、例えば田植えのように一家で短期間に行うのが難しい作業をする上で必須だった。地域共同体内に於いては、個人の能力差を無視し平等に貸借をするという暗黙の了解があった。(補足1)
 

地域共同体には、共有地(入会地)もあった。薪炭・用材・肥料用の落葉を採取した山林や、屋根を葺くカヤや肥料用の草類などを採取する草刈場などである。(ウィキペディア「入会地」参照)
 

この頃でも、共同体の団結は万全ではなく、犯罪や裏切りなどで共同体から差別待遇を受ける者が出ることもあった。それが村八分(80%)である。村八分(ウィキペディア等参照)は、特定の個人或いは一家を、上記付き合いの中の大部分(八分、つまり80%)から除外する決定であった。(補足2)

 

現代ではイジメの代名詞としても用いられている村八分だが、それは「不埒な奴(一族)だが二分(20%)の付き合いは残してやる」という処分である。その二分に、火事の際の共同消火作業、葬式での共同埋葬作業などがある。


 

2)貨幣経済の発達後の人間社会:

 

貨幣の一般化により、人間が生きる上でのあらゆる場面での物品やサービスは、その供給側の人を特定せずに手に入れることができる様になった。更に、資本主義経済では、その供給側が株式会社などの組織になることで、その物品等の製造の大規模化・効率化と品質・価格の競争が起こり、経済活動の地理的範囲が拡大することになる。(補足3)
 

経済の発達は、共同体での「結」や相互に行われていた住民間の協力を、サービス業として経済システムの中に包含し、これらの住民間の協力が不要となった。金銭の介在する契約行為となることで、個人と個人の助け合いに於ける心理的束縛感から開放されることになる。
 

昭和初期、資本主義経済の発展により、高学歴化と既住地域の外へ向けての住民大移動が起こった。先進国特に米国向けの輸出産業の急激な発展は、日本の貨幣価値の上昇をもたらし、食料などの第一次産品の価格低下と輸入増の原因となった。それは、農林水産業を前提に出来た日本の地方の集落に大きな変化を生じ、都市部への人の流出と過疎化及び地域共同体の破壊を引き起こした。

 

戦後のベビーブームとも重なって、大型団地が日本全国の都市近郊各地につくられた。大規模化する株式会社のほとんどが大都市周辺に社屋や工場を持ち、多くの人材をその周辺に住まわせることになった。年功序列で終身雇用の給与所得者(補足4)は、住宅手当の充実などもあって、住宅ローンでそれら住宅の分譲を受けることになる。
 

この傾向は、運命共同体的であった大家族(補足5)の解体にも波及し、生じた核家族も非常に脆くなる。家族は自然に存在する最後の共同体であるが、それも破壊される方向にある。保険制度の拡充と介護や保育への資本主義システムの進出で、老後と育児のパターンが変化しつつあるので、近い将来、家族の絆はほぼ無くなるだろう。

 

実際、母子の絆さえ軽く放棄できる母親もいることが、最近のニュースでも報じられている。(補足6)もし、そのような母親が、資本主義社会で何かと有利なら、その種の女性が種の選択で生き残り、ホモサピエンスの特性として残るのが男女の性の本能のみとなる可能性がある。それは、社会の崩壊と人類の絶滅を意味する。


 

3)自治会活動の壁

 

貨幣経済は、貨幣の交換という形で取引が円滑に進むことを利用して、金融資本主義経済へと発達した。円滑な取引で帳簿に残るのは、貨幣の移動残高であり心理的負担の残余はない。人と人の関係は、取引の前後でほとんど何も残らない。
 

人はお金を使うとき、通常は私的な空間に居る。そしてお金を受け取るとき、仕事の現場(社会の公空間に居るとき)であることが多い。資本主義経済はその区別を可能にした。私的な空間では、だれもが心理的に伸び伸びと出来る。4,6時中共同体を構成するような鬱陶しいことには、私的空間においては忌避するのが当然である。

 

人間は大きな社会を作って生きるので、多様な人格と能力の分布が存在する。社会の公的な空間(社会の部品として生きる時間)から私的な空間に戻ったとき、相性の合う人との共同生活なら望むところだが、相性の合わない人との作業はごめん蒙りたいと思うだろう。資本主義経済の発達は、人材の多様化を益々必要とする一方、明確な私的空間と時間を人に与える。
 

動物としての人(ホモサピエンス)も、環境に応じて進化するので、個性の多様化が進み、集団全体に協調性を要求することは、無理になってくる。つまり、人は住居に帰って他人との関係から開放され、その開放感を喜ぶ。老齢になって、供給側に位置することがなくなっても、気を使う関係を持ちたくはないと思うのは、当然だろう。団地でペットを飼う人が多いのも、人よりも犬や猫を相手にしたいという気持ちの現れだろう。
 

自治会活動が大きな壁を持つことは以上の考察から明らかだろう。この壁を打ち破るのは、自治会の役員ではない。自治会の主人公である構成員一人一人である。若い頃、心理的負担を負いつつも、会社など勤務先での人間関係を維持したのは、生活のためである。もし、自治会活動が自分達の生活に必須なら、人は再びその心理的バリアを超える気持ちになるだろう。しかし、必須でないのなら、それを超えて参加する必要はないと思うだろう。


 

4)現代の自治会組織のあり方:地方自治体の下請け組織

 

現在の自治会活動は、回覧と掲示板を維持すること、標語を作ったり掲示したり、旗にして立てるなど、経費とエネルギーを浪費している。それは恐らく、絶対に必要だと考えられる活動方針が見いだせないままに、地域コミュニティを復活させようとする姿だろう。ここでコミュニティと書いたのは、日本人のほとんどが共同体という意識で参加していないからである。

 

 

最初の議論に書いたように、村八分の際にも残す葬式や火消しの業務まで、行政が担当している現在、自治会活動に於いて過去の地域共同体の活動をモデルにすることに意味はないのである。全く新しい自治体のあり方を創出するのでなければ、このような非効率且つ住民のエネルギーを浪費する形の活動は廃止すべきである。

 

その他に、地方政府(地方自治体)の下請けとして、苦情や陳情の中継をやったり、福祉組織の下請けをやったりしている。自治会組織を利用して、上から情報を間欠的に流すだけなのは、非常に効率が低いと思う。

 

ただ、不思議なのは住民加入率の非常に高いことである。私の参加する自治組織でも加入率はほぼ100%である。近隣の自治組織でも同様であることを、先日の集会で知った。それは村八分の恐ろしさを知っているからかもしれない。
 

5)自治組織:インターネット閲覧環境の全戸への普及と、国際政治を語る場にすべき

 

国政が、政治屋を家業とする人たちにより支配されている今日、社会の変遷とそれによる危機的状況においても、対応が全く出来ていない。そればかりか、自分たちの既得権益維持のために国民の多くを思考や議論のない集団とすること(愚民化)が、未だに彼らの政策である。(補足7)
 

この愚民化政策を、現在の自治会活動は地方自治体と一緒になり追認しているように見える。問題点を根本から考察し解消すること無くして、自治会活動という名目で、不平不満運動の萌芽を摘み取っているのである。組織を作った場合、十分な実績が挙げられないなら、その組織は廃止すべきである。それは次の発想力のある組織の誕生を妨げるからである。
 

前のセクションで、もし自治会活動が自分達の生活に必須なら、人は再びその心理的バリアを超える気持ちになるだろうと書いた。現在の日本の危機を本当に知ったのなら、自治会は政治を考える中心になるだろう。会員の多数が、日本という国家が自分達の生活に必須の共同体であることを知り、蜉蝣のような実体のない国家からの脱却が可能になるかもしれない。そのために相互扶助的にインターネット閲覧環境の全戸への普及を実現し、自治会の場を政治を語る場として用いるべきである。

 

日本の危機とは、隣国の植民地となることである。自国を守る権利を放棄したような憲法を持ち、隣国に多数の核ミサイルの照準をあわされていても尚、日本国とその国民は眠り続けているのが現状である。人権無視の19世紀型の大帝国を西に隣国として持ち、日本人は平気で居ることが不思議である。現在同盟関係にある米国は、西太平洋から抜け出る筈である。

 

目覚まし代わりに、例えば、2005年の中国人民解放軍少将の朱成虎の発言を見れば良い。そこには中国共産党の本質が語られている。「世界の人口は無制限に迅速に増加している。今世紀中に爆発的増加の極限に到達するはずだ。しかし地球上の資源は有限なのだから、核戦争こそ人口問題を解決するもっとも有効で速い方法である」と語っている。そこで、攻撃の的になるのは、人口が密集する日本やインドであるとも語っているのである。

 

 

 

朱はその後中国での地位を下げるどころか、むしろ挙げているのである。ウイグルやチベットの惨状を知らず、ユニクロの服を着、今治タオルを利用する人たち、太陽光発電を設置して電気代を稼いでいる人たちは、自分たちの命を削って、その一部をもらっていることに気づくべきである。

(20時0分表題一部変更;11日早朝、全体的に編集最終文書とする)
 

補足:

 

1)この地域共同体の実態は、筆者が幼い頃見聞きしたことである。20数戸の集落には神社と寺院が一箇所づつあり、その維持管理は共同で行っていた。講や結の実態も見てきた。「講」としては伊勢講と愛宕講があった。伊勢講では、毎年だと記憶するが、伊勢神社に集落の代表を送るために、経費を毎月集め積み立てていた。勿論、愚痴などが漏れ出ることはあるだろうが、それを飲み込むことは共同体内での義務である。
 

2)村八分は現代の視点では人権侵害的であり、学校などでのイジメと似ている。ただ、地域共同体が閉じた私的社会と見做しうるなら、そこには独自ルールがあって然るべきである。日本国憲法にある、公共の福祉を人権に優先する規定と同じ主旨とも考えられる。つまり、地域共同体を破壊に導く行為は、厳しく罰せられるのである。
 

3)組織を形成する側と資金の供給側も、別々の人物或いは組織で構成され、その間に株券が介在することになる。株券での出資の条件は配当金の受け取りであり、債権での出資の条件は利息の支払いと担保の設定である。これらプロセスで金融業が発展することになる。
 

4)大規模化する株式会社のほとんどが大都市周辺に社屋や工場を持ち、多くの人材をその周辺に住まわせることになった。年功序列で終身雇用の給与所得者は、会社による封建的支配体制とも考えられ、江戸時代の武士の雇用形態に似て日本文化に円滑に融合した。大企業の下に都市部が広がる地域が、企業城下町と呼ばれることになる。
 

5)大家族の繋がりは、大陸特に遊牧で生きる人々の中で重要である。日本では、貴族や王族が権力維持のために大家族の繋がりを大事にする以外は、それほど遠くまで強いつながりの大家族は無い。ここでの大家族は、祖父母、父母、子、孫程度の、大家族でも小さいタイプである。
 

6)卓球選手だった福原愛さんは、台湾に男女2子を置いて、離婚し日本に帰った。事情もあるだろうが、その事情が人間界にある憎愛のレベルなら、母子愛の低下と観るのが普通だろう。
 

7)愚民化政策の代表は、戦後の歴代自民党政権が行った歴史の隠蔽である。未だに日本では嘗ての戦争までの近代史の総括がなされていない。戦後最初の歴史隠蔽の企みが、第一級の戦犯の議論を封じるために行った、多くのBC戦犯の赦免と靖国合祀である。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12655760953.html


 

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