2013年10月5日土曜日

老人を助け損ね踏切で死亡した女性に紅綬褒章と感謝状銀杯授与した阿部首相の思惑

 この件、大橋巨泉さんを始めネットでは多くの人により議論されているので、今更という感じがするが、一寸書いてみる。  巨泉さんは、官房長官が出向いての褒賞授与を、政治的パーフォーマンスとして批判しておられる。(注1)論点は明確である。つまり、踏み切りの仕切り棒が降りている時に、線路内に入るのは違法行為であり、その“違法行為”に政府から褒賞を贈るのはおかしいという論理である。このような明確な批判が、マスコミ界で飯を喰っている人からあまり聞かれないのは、「この国はものが言えない国」ということを示しているような気がする。
 私は、その女性が咄嗟の判断ミスをして死亡したのであると思う。また、そのような救命行動をとった勇気は誉められるべきだが、他人に勧められる行動では無い。ましてや、それにより死亡したことを誉めたたえる安倍総理や菅官房長官の言葉には、非常な違和感を覚える。もし、成功した場合、官房長官が出向いて紅綬褒章を授与するだろうか?本当は、成功したときの方が賞賛に値する筈なのに、死亡したことに特別の意味を持たせる今回の褒賞は一体何を意味しているのか?過去に、山手線のホームから落ちた人を助けに韓国人青年と日本人カメラマンがホームに降りたが、3人とも死亡した事故があった。その当時、事件は大きく報道されたが、政府要人が遺族を訪問していない。
 ところで、私はこの件を考えていた時に、突然、安倍さんが過去の戦争で命を失った多くの人を思い出したのではないかと思った。日本国民は昔から、他人のために命を捧げることに対して、最高の価値を置く感覚を持っていたと強調するための褒賞及び銀杯ではないかと。終戦間際に戦闘機で艦船に体当たりする行為は、犠牲でもなんでもない。ただの無駄な死であったと思う。優秀なる若者を無駄に死に追いやるという愚かな政策を採った、当時の日本国指導者の多くは、東京裁判で死刑になった。しかし、櫻井よしこさんを始め、所謂右翼的な人は、そのような人も日本国内の視点では戦犯ではなく、靖国神社に祀られて当然であるとの考えである。(注2)
 国の指導者の責任を問うか問わないかが、民主主義と全体主義の違いだと思う。櫻井さんは戦前の全体主義的政治を良しとする感覚をもっているのではないかと思う。そして、安倍さんを始め多くの自民党議員達も同様だろう。マスコミ人は、今回の特別な褒賞の理由を首相に正すべきだと思う。
 上記感想は、ちょっと想像し過ぎかもしれない。安倍さんはもっと単純に、愚民政策的に人気取りをしただけかもしれない。何れにしても、悪質である。
注1)http://www.youtube.com/watch?v=YA7OMkIphkk
注2)http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html

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