2013年12月5日木曜日

善人と悪人(親鸞のことばについての私的解釈)

 親鸞のことば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を理解するには、ある仮定を置く必要があると思う。それは、「親鸞は、この人間界で社会性を持った人(不特定の他人を相互扶助の相手として受け入れる人)のみを”善人”と”悪人”に分けている」と言うことである。(注1)この世には、生物学上のヒトであるが、”人間”とは言えない者もかなり居る。つまり、(母)親に愛情とともに育てられた人、或いは、社会の中で愛情を受けて育った人は、社会の中に生きることを受け入れる”人間”になるが、そのような幼少期を得ない場合は、外見は同じであるが、”人間”にまでなれず生物学上のヒトに留まる場合もありえる。阿弥陀仏の本願(他力本願の”他力”)が対象とするのは”人間”であり、生物学上のヒト一般ではないということである。

 善悪は社会を作って生きる人の間でのみ、意味を持つ価値基準である。そして、善は社会に貢献する行為や考え方、悪は社会において個人の利益を優先する行為や考え方である。人は社会の中でしか生きられないが、個人の利益を追求する姿勢が無くても生きられない。つまり、人は必ず社会に一時的に背く行為、つまり悪を為す事で生きている。(注2)そして、悪を為した後に何らかの精神的苦痛を感じる筈である。その苦痛は、悪の反対にある善を意識していることを意味している。

社会において苦しい境遇に追い込まれた人ほど、悪をなして生きる自分を意識することになる。「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」とあることから、善悪を特に意識しないで、生きる事の出来る(恵まれた)人より、自分が為した悪を意識して他力にすがる人が、救われるのだと解釈できる。石川五右衛門の辞世の句「いしかわや、浜の真砂がつきるとも世に盗人の種はつきまじ」は、この社会に悪は必然であることを歌ったのだと思う。貧しい時代に生きた五右衛門は、仕事が無くて盗人になって生きたのだろう。五右衛門を裁く側は生まれながらの幕府の役人で人生においてさしたる苦労をしなかったとしたら、どちらが極楽に近いと言えるか?親鸞の言葉は、そう解釈できると思う。

 善悪は社会に生きる人を前提にした物差だとすれば、それは社会の外を対象にしない。その社会の境界を国境と考える場合、国家間の戦争などで兵士が人を殺傷する行為は悪には入らないという考え方もあり得る。つまり、社会の内外をまたぐ場合、人は善悪という考え方から一時解き放たれる(注2)。それは、戦争が国家間の野性の原理に基づく生存競争であり、そこには善悪は存在しないのである。しかし、国を超えて“社会”(international community)と考えるべきであるとする考え方もあり、その場合戦争で敵を征服する行為は国家の手先になって悪をなすことになる。この”善悪”のブレによって、兵士は精神的苦痛を感じることになる。(注3)

 もとより私は地獄極楽などを信じる者ではないが、「善悪」は人に成長する段階で教育すべき概念だと思っている。ただ、社会を動かす力を持った人は、「善悪」は行為や出来事を計る物差しとして、社会の際をまたいでは役立たないことを、そして、”社会”と言える程にはなっていない国際社会において、世界の各国指導者達はそのことを承知して政治に参加していることを、承知すべきだと思う。(注4)

  注釈:
1) 野性の動物は善悪の枠の中に無い為、元々救済する必要がない。(つまり、善悪に苦しむ存在ではない)従って、野性のヒトも仏の救済の対象ではないし、仏を必要としない。
2) 人が個人の利益を優先するとき、社会との間に摩擦を生じる。人は、その行為を”悪”と言い、その社会との摩擦を(精神的)苦痛と感じる。
3)戦争におて敵兵を殺傷する行為は、社会の境界を超えているので、個々の兵に善悪という物差を当てることは意味がない。その代わり、”国際社会”の構成員である国家に、善悪の物差が当てられる事になる。
3) おそらくそのような人は、人口の0.1%位居ると思う。特に社民党の方には特にそう言いたい。
(12/10改訂)(2017/4/11; 改行のみ挿入)

1 件のコメント:

  1. 善と悪との定義、それに基づく善人と悪人の解説は明快で在り、流石自然科学者と思いました。
    個人と国家とにおける善悪をごっちゃにしている人が多いと思います。

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