2014年1月31日金曜日
STAP細胞と進化論&ガン研究: 退役軍人の夢想
それは、進化論への貢献及び細胞のガン化メカニズム研究への応用である。何故なら、ある細胞からSTAP細胞を経て、他の組織の細胞になったとした場合、そこで遺伝子情報が書き換えられていることを意味している。生物の進化も細胞のガン化も遺伝子情報の書き換えであるので、それら二つの大きな問題とSTAPプロセスには共通点があると考えたのである。(注釈1)
生物の進化論として、我々が学校でならったのは、ラマルクの用不用説とダーウインの突然変異と自然選択説である。現在、ダーウインの説が進化論の主流として現在に至っている。因に最近、きりんの首が長くなる様子を描いたアニメとともに、「強いものが生き残ったのでない。適応出来るものが生き残ったのである」というナレーションを使った企業の宣伝をテレビでよくみる。キリンの首が長いことはキリンの遺伝子に書かれており、スポーツ選手が筋肉を鍛えるように、首を長くする訓練を子供のときからした結果ではない。何が言いたいのかというと、個体が首を長くする努力が首の骨などを作る細胞への刺激となり、遺伝子に書き込まれることはないか?ということである。つまり、突然変異が全く突然に起こるのではなく、刺激によって種が望む方向に起こらないかということである。そうすると、ラマルクの説とダーウインの説の真ん中に、進化の原理が存在することになる。STAP細胞という新しい生物学的技術は、そのような進化のプロセス解明へ役立つのではないかと考えた。 私の専門領域としてきたのは、物理化学であり、生物学は全くの異分野である。退役軍人の夢想として読み流して欲しい。
注釈1)細胞のガン化プロセス研究へのSTAP細胞の応用については、例えば、喫煙による刺激が肺や咽頭に出来るガンの原因になることなどを考えれば判りやすい。これについては、以後省略する。
2014年1月30日木曜日
”東大紛争秘録;NHKクローズアップ現代”の感想
私は、当時大学生であったが、安田講堂に立てこもった学生に違和感をもっていた。その原因は、どのようなプロセスが大学当局と学生の間にあったとしても、大学の建造物占拠は違法行為であり、且つ、日本は法治国家を名乗っていたからである。大学の自治といっても、それは、思想の自由に由来する学問の自由に基づくものであり、それはゲバ棒(学生達が武器として用いた棒)で護るべきものではないからである。ゲストの方の「国民にもシンパシー(感情的な共鳴)があった」という発言には驚いた。
当時全国の大学に紛争が広がったのには、いろんな理由があると思う。その一つとして、番組で紹介されていたのは、当時の高度経済成長路線に対する漠とした疑問である。活動に参加した学生達があげた疑問として番組で紹介されたのは:
1)高度成長は何故必要か? 2)学問は何の為にするのか?
である。当時を回想した教授の一人から、「それらの問いかけに我々もまともな答えを持っていなかった」との正直なコメントがあった。
しかし、このような純粋な質問の陰に隠れて存在するのは、世界を二分する勢力間の冷戦構造であったと思う。何故なら、全国の大学紛争が先鋭化した後に聞こえたシュプレヒコールは、「安保反対」であったからである。今日の放送で、このことが全く触れられなかったのは、非常に不自然である。また、早期に安田講堂占拠事件が解決しなかった原因は、日本国全体に当時も今も法治国家という制度が文化として定着していない為であると思う。
2014年1月28日火曜日
NHK会長の問題発言について
慰安婦は、今のモラルでは悪い。僕はいいと言っているのではない。しかし、そのときの現実としてあった。この2つを分けないと分かりづらい。個人的見解だが、韓国だけではなく、戦争地域に僕はあったと思う。ほかの地域になかったという証拠はない。ドイツにもフランスにも、ヨーロッパにはどこでもあっただろう。この問題は、韓国が日本だけが強制連行したように主張するから話がややこしい。それは日韓基本条約で国際的には解決している。それを蒸し返されるのはおかしい。
この中で、問題になりうる発言は、後ろから二行目の“韓国が日本だけが強制連行したように主張するから話がややこしい”である。 しかし、この“強制連行”が国策として行なわれたものなら、日韓基本条約締結後の新たな問題であるから、日本国は賠償の責任を負うと思う。しかし、その証拠が全くなければ、その他の問題は日韓基本条約締結の際に、賠償金相当額(注1)が既に支払われているので、解決済みということになると思う。
戦争当時、兵舎の周りに本人の意に反して売春婦として働いた韓国人がいたというだけなら、当時の基準から考えて、国家間の問題として新たに取り上げるべきではないと思う。また、強制連行という言葉も当時の判断基準に照らして解釈する必要がある。つまり、極貧の時代には、親に売られるようなことはどの国でもあっただろうが、その後の本人の意志に反した移動は強制連行とは言えないだろう。そのような行為で生計をたてることは究極の選択であるので、本人は強制と感じるのは当然であるし、気の毒なことと思う。しかし、極めて貧しい上に戦争中という異常な時代の歴史的出来事を、現代の感覚で裁くことは出来ないだろう。
重大なる新発見があったのなら兎も角、歴史上の出来事になったことを誇張して取り上げ、日韓基本条約を締結して将来へ向け出発した筈の両国関係を壊そうとする最近の韓国側の姿勢には辟易する。上のパラグラフに書いた様な趣旨の発言なら、取り消す等と発言せず、仮に職を辞することになったとしても批難の言葉の前面に堂々と立つべきである。本音を喋っただけだけれども、就任会見としては相応しくないのでワイシャツを着替えるような感覚で簡単に取り消すというのなら、その“取り消し発言”こそNHK会長の適性を疑わせる。また、従軍慰安婦という言葉がインタビューで現れただけで、パニック状態になる日本社会にもうんざりする。報道を職業としながら、籾井勝人氏の発言の何処がどのような基準に照らして問題なのかを明確にせず、さしたる議論も無く、あたかも言霊の宿る”従軍慰安婦”という言葉におびえるような人たちに一国民としてウンザリである。
注釈:
1) 韓国は連合国側としてサンフランシスコ平和条約に参加しようとしたが、連合国側により戦争時韓国は日本国の一部であった(つまり、日韓併合条約は有効)ので拒否された。従って、戦争した訳ではないので、賠償金という名目では支払われなかった。(Wikipedia参照)
2014年1月26日日曜日
キャロライン・ケネディ駐日大使の「イルカ漁は非人道的だ」という発言について
この安倍総理の発言は将に正論である。今日放送された、「そこまで言って委員会」においてもこの件が議論され、出席したコメンテーターは圧倒的に安倍首相の正論を支持する発言をしていた。一方、番組の中で津川氏は、日本でイルカを食べていることを知らなかったと発言していたのが、印象的だった。私も太地町は捕鯨で有名であることは知っていたが、イルカを食用に捕っていることを数年前まで知らなかった。つまり、捕鯨と異なり、イルカを食用にするという習慣は日本国内でも非常にローカルな慣習と言って良いと思う。(注1)
このイルカを食べる文化であるが、米国の駐日大使の非人道的という批判が世界に報道され、日本文化に悪い印象を与えるのなら、もう少し慎重に対応を考えた方が良いと思う。権利義務に関して白黒つける場面なら、正論を主張するのは当然であるが、国際的な舞台での印象や好き嫌いの問題としてイルカ食を評価する場合、そして、それと関連して日本国の損得の問題として考える場合、計算式は異なるのである。私は、太地町の皆さんには別の漁で生計を立てて欲しいし、場合によっては、行政によって漁の自粛措置も考えるべきだと思う。もちろんそれに対する太地町の皆さんへの代償措置は考えるべきだと思う。
日本国は戦後70年間に、豊かで平和な国として復興及び成長出来たのは、国際的な枠組みとルールの下で、経済活動を拡大してきた結果である。もちろん、このグローバル化した政治経済体制の中にあっても、ローカルな文化を出来るだけ許容することは、人種差別の解消と同じように国際的了解事項として定着している。しかし、それはエキゾチックという言葉で済まされる場合に限られると思う。動物園でみる愛らしい曲芸を見せるイルカを食する文化が、世界に広く知られるようになったなら、日本国と日本国民全体が、国際的に奇異な目で見られることになるだろう。
2020年のオリンピックが東京に決定したのは、経済的政治的な面から開催能力が高く評価されたからだと思う。しかし、その招聘の為のプレゼンテーションは、日本や東京のイメージを高める様に外国の専門家を雇って企画された。国際的政治経済に於いても、そのようなイメージ戦略はこれから益々大切になると思う。原理原則を盾に、突っぱねる場面もあるだろうが、そのカードをイルカ漁に使うのは損であると思う。
注釈:
1)イルカもクジラの仲間であり、おそらく区別なく漁の対象になっていたのだろう。しかし、太地町以外の住人にとってはイルカは水族館でみる曲芸で馴染みの動物であり、巨大なクジラとの差は、ネコと虎の差に近いと思う。
2014年1月23日木曜日
地球温暖化仮説のインチキと日本国民の将来(&原発も有力なエネルギーとして確保しておくべき)
また、 アラスカ大学教授(地球物理)であった赤祖父俊一氏の講演をyoutubeでみた。それによると、地球温暖化は起こったとしても1度以下だろうとのことで、大した問題ではないとの話であった。更に、地球温暖化などの問題は時間的余裕もあり、まだまだ学者の研究する領域であり、政治的問題ではないと指摘している。日本はCO2による地球温暖化に関して、世界の中でも特別でヒステリックとも云える状態になっている国とのことである。(注2)そして、イギリスの4チャンネル(テレビ局)により、ゴア氏の“不都合な真実”のインチキはあばかれているということであるが、日本ではそれほど大きく報じられていない。実際同じことが、他の人によっても 解析、指摘されている。アル・ゴア氏とIPCC(学会ではない)のノーベル賞受賞は、同賞が偏った政治的活動の道具となっていることを示している。 ここで、ローマクラブによる “成長の限界等”の出版(1972;1992年)によっても指摘された、資源の枯渇や人口の増加により、近い将来、人類の成長の限界が来るということを思い出すべきである。具体的な図が、赤祖父氏の講演の中で、示された(下図)。それによると、資源枯渇と環境汚染などにより2030-2050年の間に、世界人口の激減が予想されている。地球温暖化説は、この資源枯渇と環境汚染を抑えるという動機で”闇のなかから”出された可能性が高い。(注3)そして、判りやすく二酸化炭素がその象徴として採用されたのだろう。 これらのことから、我々に課された火急の課題は、1)如何にして食料を確保するか、必要な資源を削減するか、2)上記2030-2050年の人口の急減の際に、何が地球上で起こるのか、それへの対策として最善なのは何か、などについて考察することである。また、原子力は資源やエネルギー枯渇の将来を考えた場合、確保しておくべき技術であることは明白である。日本人であることのリスク(橘玲著、講談社プラスアルファ)を最少にすることに、今こそ政治は着手すべきであると考える。
注釈:
1) 放射線の最初の検出は、ウイルソンの霧箱を用いて行なわれた。これは、まさに雲の放射線による発生と同じ現象である。
2) 日本は、ダイオキシンが話題になった時と同じように無駄な金を使うべきでないとの指摘もあった。
3)赤祖父氏の講演では、アメリカの経済を牽制する目的で英国により工作された可能性がサジェストされていた。どこかで、発展途上国の更なる経済発展と資源消費を抑える目的でだされたとの仮説をみたことがある。
(2014/1/23; revision: 1/24)
2014年1月21日火曜日
日本教と日本語について2:私の考えをまとめる
山本氏の上記本の20頁に、「日本語には論理はありません。日本人は論理学なるものを全く知りませんでした。日本語とは“ロゴス(論理)なきロゴス(言語)”です」とある。 私もそのように考察したことがある。その日本語の下に出来上がっている日本社会の特徴と、その社会に問題が生じたときの対処プロセスに絞って、以下に箇条書きに書く。
- 日本人は密な集団で温暖な自然の中で生きてきたため、恐怖は冷害や台風などの自然現象と所属集団からの疎外であった。
- 自然の恐怖にたいしては、自然信仰である神道を持つことで、集団からの疎外に対しては、私心を捨てることを美徳とすることで、それぞれ対応する”日本文化”を育てた。
- 私心を捨てて集団の中に生きてきたため、「私」や「あなた」などの主格を明確にする言語表現が消え去り、その結果、現代まで論理なき言語しか持てなくなった。論理は、主格と目的格が明確でない文章では組み立てられないからである。(注1)
- ある問題が生じた時、論理無き言語とそれに包摂された文化の下では、問題の原因解析と解決への対策が、集団の英知結集と彼らの議論というプロセスを経て提出できない。従って、集団の指導者には論理的考察力のある者よりも、個性が魅力的に見える陰謀家タイプの者がなる。
- 従って、その問題に対する直接的関与(実体語)で解決しない場合、間接的或いは根源的原因などは追求されず、精神とか一丸とか云う言葉とともに虚しい解決策、つまり空体語、として提出される。それらは問題が解決しない限り社会の中に蓄積するので、”空体語のバスケット”の中に投げ込まれた虚しい解決策と呼ぶことにする。そして、それらは民衆を不安にするとともに、破滅の道へ導く”空気”の醸成に寄与する。(注2)
- その未解決の問題は、当事者の暴発(内乱、クーデター)や外圧(強圧的外交、敗戦)と言う形でカタストロフィックに取り除かれる以外には消滅しようがない。
論理の無い日本語文化で用いられる「空体語」の表現は、解決がそれほど難しくない日常生活レベルの問題でも、「ゴミをすてないでおこう」などという標語のように、“実質的には問題のオーム返しに過ぎない解決策”という形で、”空体語バスケット”に投げ込むレベルのものになる。国家レベルの例では、戦争時に敗戦が近くなるに従って、勇ましい標語が氾濫したのも同じメカニズムである。孫引きさせてもらった戦時標語のなかから、「一億抜刀 米英打倒」を例にとれば、この標語も”「どうしたら米英を打倒できるか」についてのデータを用いた、論理的思考の末に得るべき作戦”の代わりに、”一億抜刀”が置き換わり、問題の「空体語バスケット」への投げ込みになっている。誰かが"空体語バスケット"に投げ込むと、その後は多くの人が似た様な同一の原因による困難を空体語にして同じバスケットに投げ込む。それが、上に引用した数多くの標語である。
更にもう一つ例をあげると、江戸末期開国も止むなしと悟りながら、島津藩などは攘夷を叫んだことが「日本教について」で紹介されている。そして、実体語での”開港は必要である”とバランスをとる為の空体語”攘夷を叫びうる状態も必要である”であったと言う記述である。(文庫版26頁)空体語と実体語の間の支点としての『人間』が存在し、両者間のバランスをとることは、日本教についての中心的教義ではあるが、判り難いと思う。むしろ、”開港は必要である”は同じでも、それに付随した新たに生じる問題、例えば、幕府の崩壊や、日本の植民地化の可能性など、にたいして、論理的な考察が出来なかっただけではないだろうか。つまり、上記5)に述べたように、これらの問題を論理的考察なしに”攘夷論”という”空体語バスケット”に投げ込んだだけではないのか。
論理的な言語環境を持つ体制であれば、それぞれの考え方を持つ智慧者を集めた討論などを通して、現在採るべき対策と、今後生じる問題とその解決法などが、探せたかもしれない。
以上、日本教の中心的教義の『人間』(=空体語と実体語の支点)を用いないで、同じ問題を考察してみた。私は、橘玲氏の著書『(日本人)』(括弧日本人と読む;幻冬社)にあるように、日本教のような特別な概念を用いなくても、日本人の文化や行動は解析可能だと思う。
このような文化は、人治国家的な東アジア全体に見られる。大陸の半島北にある国も、勇ましい言葉でテレビ放送がされる時、それらの言葉は実際には苦境にあることを物語っているのである。「特に日本教という程のものではないのではないか」というのが私の最終的な結論です。
注釈)
1)英語でもドイツ語でも主格、所有格、目的格には、それぞれ別の言葉が用いられている。一人称及び三人称では、それぞれの単数と複数の区別も明確である。一方、日本語ではこれらを助詞を用いて区別しているにすぎず、英語やドイツ語(私はこれら以外を知らない)と比べて差は明らかである。たぶん中国語も日本語と同様だろう。例えば、我の所有格は我的であり、助詞と思われる”的”がつくのみである。
2)著者は、江戸時代の鎌田柳泓の「心学奥の桟」の中から、「がんらい神は、本質的には「空名」であるが、その名があることはすなわちその理があることで、その応はまたむなしくない」を引用して、この空名(なばかりのもの)を空体語と同じとしている。ここで、我々にとっての「神」を考えると、現実の生活で本質的に解決出来ない「生命」に由来する問題を全て、「神」という「空体語バスケット」に投げ込んでいると考えれば、この項目は判りやすくなると思う。ただ、日本人は、論理的な議論を通して緻密な議論を繰り返せば、解決可能或いは問題を縮小させることが出来る問題すら、この「空体語バスケット」に投げ込んでしまうのである。
2014年1月19日日曜日
インターネットの危険性-社会を破壊するかもしれないネット菌
スマホやパソコンでのインターネット利用の危険性については、広く知られている。しかし、文部科学省のサイト例1では、危険な事象を羅列的に述べているに過ぎないし、別のサイトでは、その原因について、「インターネットは現実の社会と異なり匿名性があるため、仮想的な世界となっている」との指摘があるものの、今一つ深さがない。つまり、匿名性があれば何故仮想的な世界になるのか?或は、分析者は“仮想的”ということばをどう定義して用いているのか?などの疑問が残るのである。そこで、ここではもう少し掘り下げてこの問題を考察するための糸口を提案したい。 インターネットの危険性は、一言で云えば、どのサイトもクリック一つでアクセス可能である点にあると思う。つまり、地上の生活においては、全てのサイト(位置或は場所)は離れて分布し、そこへのアクセスは何らかの交通手段を要する。その場所には何らかの全体的イメージがあり、個々の場所に至るまでに既にある種実質的及び心理的エネルギーが必要である。また、昼の世界(表の世界)と夜の世界(裏の世界)などの区別も加わる。更に、何よりも重要な差は、インターネットでは厳密ではない個人の表と裏が、地上の世界では峻別されることである。我々は社会生活をする上で、外に出るときは表の顔で出る必要があり、それは幼児教育から一貫して教え込まれている。表においても、公的会合とその他のオープンな場の区別、客とホストの別など、我々が用いる”表の世界での仮面”にはいろんな区別がある。 それらの複雑な多様な情況を、一様に伸しイカの如く平面に広げてしまうのがインターネットの世界である。内面の欲求と関連したイカガワしい(と表のことばで表現される)ページも、社会人としての勉強のために見るページも、全てワンクリックでアクセス可能である。このような世界を、法と正義を看板に挙げた我々の社会生活と共存させて良いものなのか? 一時期流行して人類の大きな危機となった結核菌の如く、社会を構成する個人の幼児期から形成した“表と裏”のチャンネル(細胞膜にあるイオンチャンネルのような)を破壊し、人間社会を死に導くかも知れない。 ある人は“携帯を持ったサル”などと、このネット社会を批判するが、問題の一端を指摘したにすぎない。このような議論を喚起するまでもなく、すでに菌は蔓延してしまっている。全体的な議論をもっと大きなスケールで且つ強力に行う必要があるだろう。規制の方法は上の議論から組上げることは可能であるが、経済界を始め、方々から反対の嵐がおこるかもしれない。それらをのり超えるには、精緻且つ分りやすい論理で武装し、その危険性を訴えるしかない。ただ、この種の問題を考える時に、私の頭をよぎるのは、「文明の崩壊はいろんな方向からやってくる、人類にとって運命的なものかもしれない」という託宣である。
2014年1月18日土曜日
日本語と日本教について
イザヤベンダサン(山本七平)著の「日本教について」は、非常に面白い本である。日本人の言葉が十分理解出来ないことがこの日本教と関係していると書かれている。本音と口からでる言葉が等しくないことは、洋の東西を問わずよくあることである。多くはうそとごまかしであり、人類に共通したものである。しかし、日本人(日本教信者)には、もう一つ自覚せずに用いる歪んだ言葉の用法がある。その言葉は対話のためではなく、本人と相手(或いは社会)の間に投げかけられる。山本七平氏によると、(日本語を母国語とする)日本人は、ほとんど全員が日本教の信者であり、そこで話される“言葉(日本語)”は、“実体語”と“空体語”(24頁(以下全て文庫版の頁))という異なった成分を持っている。しかし、“空体語”は”実体語”と違って現実的意味を持たない(“空名”である)にも拘らず、一定の影響(“応”)を持つ為に、日本人の言動や行動が西欧からみて判り難くなっている。なお、私の理解では、空体語の判りやすい例として社会に氾濫する標語がある。それら(空体語)は、現実から次元的に離れている点で理想でもない。(注1)
そこで先ず、日本教について私の理解した範囲をまとめてみる。
(第一条) 日本教の信者は、『人間』でなくてはならない。この『人間』は、言葉では規定されず、実体語と空体語の間にあって、これらの間で両者のバランスをとる支点的存在である。(46頁;内容をまとめている)
日本教においては、ことば(日本語)を用いて事実と事実を結びつけ、有用なる論理的な展開は(しないし)出来ないとしている(20頁)。しかしながら、人間の生きる空間とそこでとるべき行動を、ことばを全く用いないで規定出来ないので、『人間』は現実に即した“実体語”とそれと対立する“空体語”という全く異なったタイプのことばを用い、その間で両方のバランスを採る様に立つべき位置を決める。これが、私の理解した”日本教”の中心的教義である。(注2)なお、人間に『』がつくのは、日本教の教義における人間という意味である。
(第二条)『人間』の純度はこの支点の位置にあり、支点が空体語に近いほど高くなる。(51頁)
この教義は、『人間』の純度(=『人間』の価値)の定義である。この国では何かを主張するとき、先ず、現実に即した「実体語」表現で、目に見えた実利(自己或いは自己の集団の利益:私心(注1を参照))を優先した表現になる。一方、将来のそして直ちに明らかでないとるべき方向(道)を考える場合、論理のない日本語では、空体語を加えて選択の範囲を広げる必要がある。(注3)そこで、空体語に近い人ほど“現実の利益を優先しない純度が高い人”ということになる。 裁判所などを含め日本の全てのところで、純度により対象となる人(裁判所なら罪人)への待遇が異なるので、日本を「人間の純度による流動的アパルトヘイトの国」としている(文庫版77頁)。このアパルトヘイトの存在が『人間』の純度=『人間』の価値となる理由である。ただ、空体語(虚軸)での表現がそのまま具体的になった場合、自己の所属する集団(社会)の利益にならないばかりか、破滅的な結末に至ることも考えられる。従って、この教義と付随する上記流動的アパルトヘイトは、集団の破滅にもつながりかねない。長い時間軸でマクロ(広角的)な視点に立つべき政治家が、純度の高い人であると、現実を無視することで日本国に破滅的損害を与える可能性がある。日本経済を破滅に導くかもしれない「原発即時ゼロ」(注4)を主張する純度の高い人々を批難するのは、日本教の国では至難の業である。
(第三条)空体語は、空名(名だけの存在)であるが、名があるだけに、応(利用価値)がある。(64頁)
空体語の私流の定義は既に述べたが、この概念を著者が提出するヒントになったのは、江戸時代の鎌田柳泓という人が書いた『心学奥の桟』中に使われている「空名」という言葉である。その『心学奥の桟』に、“がんらい神は、本質的には「空名」であるが、その名があることはすなわちその「理(存在理由)」があることで、その「応(レスポンス)」はまた空しくない。”(55頁)とあり、その「空名」を「空体語」と言い換えたとのことである。
以上が、条文として明確に書かれた、日本教の教義である。社会の空気に満ち、大きな損害を招いた空体語として、例えば1960年の「安保反対」と太平洋戦争のときの「八紘一宇」が挙げられている。日本で歴史に残る多くの「暴走的事件」において、空体語が大きな役割を果たしたが、それらは単に「無私の心で発せられた無知に由来する言葉」が人々を翻弄した結果と言える。そのような空体語は、実際には役立たないために社会に蓄積してホルモン的な意味(注5)を持ち、大きな事件のエネルギーを産み出すのである。蓄積した「空体語」の重さに社会が耐えられなくなり、ある時点で人間と言葉の関係が破壊され、カタストロフィックな(言葉を超えた)歴史の進行が起こる。そして、その問題は実質的には解消(解決でなく)される。これを実体語、空体語、『人間』がつくる天秤のようなものがひっくり返ると表現されている(95頁)。
日本教についての私の感想を簡単に書く。私は、日本人の言動と行動は、主格が明確でない論理展開が出来ない日本語と、それと同根である蜜な集団で生きるという日本文化を出発点にして、(日本教という枠なしに)全て説明可能な様に思う。そこでは、一緒に生きる人の集団に最高の権威があり、「神」もその集団の権威の下に存在するのである。つまり日本人は、恵まれた天候と農耕に適した土地において、論理的な言語とそれを用いた厳しい議論なしに、高い純度を保持したまま生き残れた現実主義的文化を持った集団だと思う。この本質的に孤立した文化に、稀に外からの力が加わった時、現実的対応とそれに対する論理的な道筋を得ない否定が、それぞれ、山本氏が呼ぶ実体語と空体語に対応するのだろう。空体語は論理的なものではなく感覚的なものであるから、支点なるものは最初からないと思う。個人の問題なら支点という理解でも良いが、集団の問題に関しては、人により両者の間に立つ位置はことなり、混乱あるのみであり、従って支点という考え方は無意味だと思う。
2)日本文化についての私の考え:
一神教の国々では、人は神と一対一の契約を結び生きている。契約であるから、「私」と「神」は明確にそれぞれ一点に位置する。その国の人たちが作る社会では、従って、私(一人称)が明確であり、その結果「私」の相手である、「あなた(二人称)」が明確になる。しかし、日本の様に自然を神とする国(或いは、神のない国)では、宗教は神との契約という形をとらないし、その結果、私の位置もそれほど明確でなくなる。神の前に「私の位置」が明確でないので、集団で生きる様運命つけられた人間は、集団からの疎外を一番の恐怖として意識する。集団から疎外されない方法は、集団全体のことを考える姿勢「無私の姿勢」をとることである。その結果、言葉は「私」から離れて、屢々空虚な響きでその集団に発せられることになる。集団としての行動決定が遅れると、これらの言葉は集団の間に浮遊蓄積し、場の「空気」のテンションを高めることになる。元々恐怖から始まったこれらの言葉に論理がある筈がない。それが、「空気」が支配する日本社会の特徴ではないだろうか。 つまり、「私」が明確でないことが原因となり、集団から離れて「私とあなた」も明確に規定できなくなる。そのような集団には論理的な言葉は発生しない。また、はじめに原始的な言葉が存在したとしても、論理的な言葉に成長しない。このような社会を、「お前」と「お前のお前」という二人称しかない存在しない社会と言うのだろう。(これは若干注意が必要である。注6)「私」はあなた(或いはあなた方)にどのように映っているかという視点でしか存在しないからである。このことは、既に森有正元パリ大学教授が詳細に議論していると、この本には書かれている(100頁)。
しばしば言われるように、日本は西欧からみた場合特殊な社会にあるように見える。しかし私は、「私」と「お前」が明確に存在しつつ、集団で生きている西欧社会の方が異常(たぶん良い方向に)に見える。つまり、一神教の下で発展した西欧社会の方が特殊であり、そして、西欧で産まれた論理的空間と文化の発展は奇跡であると考えている。現在、西欧化した世界があり、文明を享受しているのであるから、日本的な社会を異常な前近代的遺物と考える方が良いのかもしれないが。しかし、人間が再度ゼロからスタートして、このような文明社会が出来るかと言えば、恐らく無理であり、精々古代中国の文明やインカ帝国の文明までが限界だと思う。何故なら、人類があらわれて50万年の内の、たまたま極最近の2−3千年間に近代文明は発展したのであり、これは必然とは思えないからである。つまり、人間の遺伝子には数十万年前から、この近代文明までに至る能力が刷り込まれているとしたら、もっと前に現代のような文明社会が出来ていても不思議ではない。(注7)一神教は、神が実際にカナンの地に現れたのでなければ、一つの密に集団として生きていた民族に降り懸かった極限的情況下で、その集団が奇跡的に産み出した天才的指導者により創られたのだろう。私はどちらかというと、この後者の筋書きが本当で、それが旧約聖書に物語的に書かれていることだろうと思う。その後、ギリシャ文明と結びついて、奇跡的に現代文明として開花したのだろう。
3)日本教という考え方の限界:
私は、日本人の言動が説明困難なのは、我々日本人は、人称が揃った、そして、十分に体系化された言語を持たないことが原因の第一にあると思う。(注8)その言動や行動を、西欧の一神教文明に投影した時に、「日本教」というモデルがこの本の著者に現れ出たのではないだろうか。「一向宗徒になろうとして成れず、また、キリスト教徒になろうとしてなれない」というのと、「日本人は論理的な言葉を持っていないが、一定のパターンで行動する」の二つから、「その人格の底に既に日本教があるからだ」と無理に結論付けされているように思える。私は、「日本人は神を持たない」(注9)と「日本人は非論理的な言語しかもたない」ということと、その背景にある「蜜な集団で生きて来た歴史をもち、そして(個人ではなく)集団に最高の権威がある」ということで、日本人の行動や言動は説明可能であると思う。つまり、論理的でない言語を持つことと「空体語」が存在することは、原因と結果(或いはその逆)の関係であり、一体として考えるべきだと思う。そして、それは日本だけに限らず、東アジアに共通だろうと想像する。中国などの標語を多用して社会に訴える方法は、その一つの証明だと思う。
最初の方に書いたが、日本人の社会的行動における特徴を日本教の用語を使ってまとめる。
1)論理的な言葉をもたない『日本人』は、現実的&直接的な言語表現である”実体語”で問題の解決を図る。しかし、複雑な問題の解決法を語る言葉を構成する言葉がないので、”実体語”表現で漏れたところを”空体語”という直観的な言葉で表現する。
2)”空体語”表現と”実体語”表現は、(議論などという論理的プロセスがないので)対立したままであるため、問題が致命的に拡大した時に、革命や戦争といったカタストロフィックなプロセスで解消するのである。以上は、用語は「日本教」のものを用いているが、日本教の教義は用いていない。
注釈:
1)“実体語”は現実に即して表現したことばであり、現実的であるが故に汚れ(或いは穢れ)があると考えるらしい。“空体語”は現実離れしているが故に、純粋であり穢れがない。その中間に人はバランスをとる様に立っているというのである。純度の高い『人間』(数行下)は、空体語に近い点に立つ人である。空体語は、異次元にあることばとでも説明すべきだと思う。例えば、数学で言う複素数空間の虚軸上にある言葉と言えば判りやすいかも。
2)これは、日本人と日本社会における実体と様々な言語表現との関係を述べているのであり、教義を述べているのではないと思う。日本語は非論理的言語であるので、論理を辿って執るべき正しい方向を探すことができない。そこで、直感に訴え異次元にジャンプして探し出したもう一つの方向が、”空体語”での表現なのだろう。 “空体語”と“実体語”との中間の然るべき位置に『人間』は立つという表現は、そのプロセスを記述したモデルではないだろうか。
3)江戸末期開国も止むなしと悟りながら、島津藩などは攘夷を叫んだ。それ(攘夷論)は実体語(開国止むなし)とのバランスをとるための空体語であったと言う記述がある。(26頁)
4)ローマクラブの未来予測(1972)などを考えると、原発の廃止は未来のエネルギー政策の柔軟性を破壊する。更に、発電用ガスの輸入などで経常赤字を継続すれば、円安から経済破綻に陥る可能性が高いと思う。例えば:このサイトを読んでみてほしい。
5)人体モデルで社会を考える。人体は、脳から神経を経由して伝達される電気信号(動作と一対一の関係)と代謝エネルギーを全体的に調節するためのホルモン分泌という二つのプロセスで制御される。社会において、”実体語”は実態に即した直接的制御に用いられる言葉に対応し、”空体語”はホルモン的な制御に対応する。後者は日本独特の“空気”を媒介とする支配であり、西欧的近代社会からは全体主義的或いは非論理的として批判されるだろう。
6)二人称しか存在しないというが、本当は二人称も明確ではないのである。私という一人称が明確でないことを言い換えただけであると思う。「空気」が支配する社会も、同じことを言い換えただけであると思う。
7)中国にも個別にはいろんな発明があっただろう。日本にも2000年近く前に、製鉄の技術が大陸から輸入されている。北半球で文明が発展したのは、人間の生活に適した温帯の土地が、一万キロに渡って存在したからだという説がある。つまり、古代中国の文明もその一万キロの幅の中で、そこに住む人間の交流があったから生じたのだろう。ただ、現代文明のような形にまで発展するとは思えない。西欧医学と漢方とを比較すれば、判ることである。
8)このことは別に書いた。
日本語で、人称代名詞の数は無数にあり、場面毎にことなる。それが、「人称」或いは主語が明確でない(明確にしたくない)ことの証明である。あなた、お前、貴様、おぬし、君などの”二人称代名詞”の変化は、目の前の人と私とがある関係で混合し、その混合のレベルが異なる為に生じたものである。同様に”一人称代名詞”も、目の前の人との関係により決定される。つまり、「あなた」も「私」も言語空間内の一点に明確に存在するのではないと思う。
9)日本の神道の神は、人格を持つ一神教の神と違って、大きな山などの自然が神体である。自然に対する恐怖が産み出した神だと思う。(岡谷公ニ著、神社の起源と古代朝鮮(平凡社))天照大神などを祀る形の神道は、大規模な戦争が歴史に現れた後の変形された神道である。
(以上は理系人間の戯言かもしれません。批判議論等お願いします。今後、改訂する予定で、これは暫定版です。2014/1/18;1/20;1/21;1/24)