2014年6月12日木曜日

山本七平著「水=通常性の研究」について

 山本七平氏の「空気の研究」(文言春秋;文庫)の二つ目の文章は、表題の「水=通常性の研究」(文庫版、以下省略、91-172頁)である。「水」は「空気」と対をなして日本社会の雰囲気を作る因子としている。水という単語を用いたのは盛り上がった雰囲気を元に戻す「水を差す」という言葉からとっただけであり、必ずしもぴったりする言葉ではない。それが補足的に通常性という言葉を付け足した理由であると思う。

 水は全ての考え方を(日本的)通常性に換えてしまう力であり、それは消化酵素のようなものであるとしている。例として浄土宗としての仏教の変質や日本共産党の変質をあげ、議論している。(94-100頁)何故そのような日本社会の通常性へ適合するように消化してしまう「水」が存在するかについては、単に営みの連続性(記憶による)と、人にも何にでも存在する「異常性の排除」というメカニズムをあげている。(103頁) また、この日本における通常性の特徴として、「情況倫理」と表現されるものをあげている。たとえば、「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」「当時の情況ではああせざるを得なかった。今の基準でとやかく言うのは見当違いだ。批難されるべきはそのような情況を創りだした方だ」というものである。(108頁;注1)この過度な(つまり日本型)情況倫理的な論理は、背後に自己無謬性があるからであり、そして自己無謬性の成因には日本型平等主義がある。(113頁)日常的に慣れ親しんでいる(日本型)情況倫理的思考に異常性を感じる人が多くないかもしれないので、著者はそれと対照的な「固定倫理」の考え方との違いを説明している。それは19世紀までの西欧で厳密に用いられていた倫理である。(123頁)

 情況倫理に過度に頭を占領された例として、通知簿にオール3をつけた音楽教師の例があげられている。この例は、流石に嘲笑的に批判されたが、人間を基準とする日本的平等主義の終着駅であることに気付いた人は少ないかもしれない。しかし、複雑な論理を展開するまでもなく、人間を平等とする人間中心での倫理があるとすれば、それで人間を裁くことは不可能である。ただ、倫理が無ければ社会は成り立たないので、情況を超越した一人間、又は一集団、或いはその象徴に、その基準を求めることになる。そして、「一人の絶対者、他は全て平等」という原則が出来上がる。(127頁;注2)  絶対者を持つことは、それに対する信仰のようなもの、つまり臨在感をもつことになる。

 このような情況の原因を、著者は日本型儒教を用いて説明している。儒教には、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中にあり」(論語、子路第13)とあり、真実或いは社会の法よりも人間関係を重視する。また、上記親子の間の「孝」の他に、「忠」という人間関係もあるが、それは主君或いは会社などへの契約的忠誠である。その儒教の考え方が、日本では「忠孝一致」という考え方が、統治者に都合良く追加された(136頁)。一方西欧では個人主義が伝統としてあり、上記のような情況にはならない。その出発点として、聖書のエレミヤ書の中の言葉をあげている。

 以上のように、忠孝一致で極限に達した人間関係重視(つまり、真実や法の軽視)と、それと従属関係にある情況倫理の支配が「通常性」の中身なら、何らかの問題が生じた時に、大衆が大きく一方向に偏る、つまり空気に支配される、のは当然の結果である。一見、良い方に「空気」が偏った例は、明治維新であり、それは「文明開化」というシンボルが臨在韓的に把握され、文明化の「空気」が出来たからである。(154頁)世の中に、西欧諸国との対立という新たな情況が生じたなら、その文明の出所を忌避する「鬼畜英米」の空気に支配されても不思議ではない。それは、まるで日本社会全体の、宗教的回心或いは転向のようである。

 以上、空気にしても通常性(水)にしても、日本に置ける束縛、つまり、自由の喪失について、そのメカニズムを述べたものである。しかし(情況倫理が支配的な)日本では、どこに自由という概念をおいて良いのか解っていない。大切なのは、「空気」に「水を差す」自由である。そして、戦後、「自由」を語った多くの人は、この「水を差す自由」をいつでも行使しうる「空気」の醸成に専念してきたのである。しかし、その「”水を差す自由”という空気」にも水が差せることを忘れている(注3)という点で、結局、空気と水(=通常性)しかないのである。(最終頁)
 以上が、「水(=通常性)の研究」を私の理解で補足を入れつつ要約した文章である。この章も解り難い。その理由は、著者が「空気」と「水」という表題のキーワードに拘り過ぎているからだと思う。特に「水」の使い方は、おかしい。“水を差す(通常に戻る)”場合と“情況倫理に支配された通常性(=水)”は全く別物だと思う。上記解釈では、その区別をしている。 

 私の考えを一言で言うと、日本には西欧にある“自由という伝統”がないということである。それは、一神教とその聖典(つまり聖書)をもつ西欧と、人間しか目に入らない儒教文化の東アジアの差であると思う。偶像を厳しく禁止し、神と人との一対一の関係を築くことで、人は人間関係から本質的自由を得る。民主主義は人と人の間に本質的自由がある状態、つまり個人主義が存在する所でしか成立しない。自由と放任はべつものである。最終頁の「水を差す自由という空気」に水がさせないのは、「自由」の本質と獲得のメカニズムが解っていないだけである。そして人類は、神(ヤーベ神)を持つ以外に「自由」を獲得する方法を発見していないようである。(注4)

 戦後、米国が日本に注入したと考えている自由は、実は放任と誤解されたのであり、日本のような行き過ぎた儒教圏(忠孝の区別ができない)での放任は、同時に注入したと考えている民主主義を別物に変質させたのである。
(以上の解釈等に、誤解があると思われるなら、御指摘下さい。歓迎します。)

注釈:
1)この情況倫理は何処の国にもある考え方であるが、日本では過度に働いているという意味で書いていると思う。たとえは、「あの時にドロボーしたのは、空腹で命が危ないと思ったからである」が真実なら、どこの国でも裁判において減刑される筈である。
2)「一人の絶対者、他は全て平等」という原則では、絶対者が実際に力を持たなければ、集団は流動的状態になり、空気が醸成される。この水=通常性の文章は、空気の醸成メカニズムという視点で書かれている。空気に「水を差す」意味での「水=通常性」はほとんど効果がない。それが、この文章を理解しにくくしている理由だと思う。最後の方にもう一度このことを「私の考え」として書いています。
3)これは、”政府の方針には何でも反対”という所謂左翼系新聞(A新聞やM新聞)が醸成した「空気」だろう。それらマスコミには、政府に賛成する自由(水を差す自由と言う空気」に水を差す自由)はない。社民党なども同様な症状にあると見える。
4)ここでの「自由」は歪んだ人間関係を排除する自由の意味で、西欧人はそれを神への束縛と引き換えに手に入れているにすぎないと言える。当然、人間は協力して生きて行かねばならないのであり、その為の「法と正義」が、神により準備されている。従って、聖典の考慮した範囲を越えない情況下にある限り、西欧社会は悪魔(実際には、屢々入り込む)が入り込まない限りよく工夫された社会であると思う。別の言い方では、西欧社会では、人間関係において自由を獲得したが、神との関係において束縛されている。従って、イスラムとユダヤの争いとその深刻さは、日本人には理解できない。(2014/6/14一部改訂)

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