2014年8月18日月曜日

国家意識も国民意識も薄い日本国民

 最近、生活保護費を申請した日本生まれの中国人が、申請を却下されたことを訴えていた裁判で、最高裁が外国人に受給権が無いという判断を示した。どんな難しい問題かと思って、生活保護法を読んだところ、明確に対象は国民だと書いてあった。これまで支給して来た地方自治体の公務員は、日本語が解らないのだろうか?国民でない在日外国人に生活保護費を支給して来た根拠を教えてほしいものである。住民は、地方自治体を税金の不正使用として訴えるべきではないのか。

 また、二審まではどのようにこの法律の”国民”を読んだのか?日本では、言語の拡大解釈や曖昧解釈が、憲法だけでなく至る所に存在する。その原因は:1)日本語は言語として不完全であり、伝える情報も曖昧であることを示している、2)日本人は言語で情報伝達することに或る種の不信感をもっている、のどちらか或いは両方かもしれない。もちろん、日本語が不完全な言語だとしても、厳密な論理展開が出来ないと言っているのではない。普通に生まれ育った普通の知性をもった人間にとっても、日本語で厳密に論理展開するのが困難であると言っているのである。また、言語以外の何か、それは山本七平氏の言う所の空気かもしれない、が情報伝達に使われているようだ。それらを総合して、日本語が不完全な言語であると言っているのである。

 最初に国民栄誉賞を受賞したのは、外国人であったことが、そのことを証明している。ただし、私も王選手の受賞を喜んだ一人だったが、考えてみれば不思議なことである。また、国民栄誉賞という言葉に、”国民”と”栄誉”の関係が、全く現れなくて済むところが日本語の欠陥であり(1)、それがあのような賞を外国籍の人に与えるためにつくることが可能だったのである。

 上記下級裁判所の判決が出た原因として、もう一つある。それは、日本人に国家意識に欠けていることである。国家意識の欠如は、外国と本土で境界争いをした経験が少なくとも過去2000年ほど無いことが大きな原因の一つだろう。また、国民一般は被支配者としての記憶しか無く、つまり、市民革命を経験していないので、自分達の国という意識がないのは当然である。従って、マッカーサーが日本統治に現れたときも、国民は米国と日本国という国家を意識するよりも、新しい君主という感覚で迎えたのだろう。そうでなければ、あのように敵国の将を歓迎(2)できる筈がない。

 ここで更に言及したいのは、ガダルカナルやインパール作戦で戦死した兵士のことである。殆ど補給もない状態で餓死させられた、あまりにも命が軽くあしらわれた兵士たちも、お国のためと言って出陣した筈である。しかし私は、彼らは戦闘するための言わば奴隷として国家の支配者たちによって駆り出されたのだと思う。従ってまた、彼ら兵士は日本国民として国を護るのために出陣するという意識よりも、家族や子孫の将来を護るのだという意識の方が強かったと想像する。従って、国家神道という兵士を調達する道具として創られた神社にではなく、我々日本住民が彼ら兵士の霊に直接感謝の意を捧げる墓地をつくり、そこに参拝するようにするべきだと思う。

注釈:
1)国民が与える栄誉ではないことは、当時の福田総理から授与されたことで明らか。栄誉ある国民に与える賞でないことは、外国人に与えられて事から言語学的に明らか。そうすると、”国民が栄誉を与えたいと内閣が推定する人に与える賞”という意味しか残らない。この複雑な内容を、国民栄誉賞とだけ名付けてことが済んでしまうところが、日本語の欠陥だというのである。福田賞として、福田氏のポケットマネーから1000万円ほど賞金を出せば良かったのだ。
2)たとえば、http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/2014/02/post_f109.html

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