2015年9月25日金曜日

日本仏教は葬式宗教か?

1) 今日(9/25)の中日新聞文化欄に、新宿区経王寺の住職、互井観章氏による仏教再生を探る(下)という記事が掲載されていた。主眼とするのは、仏教が日本でどのように定着し、今後どのように生き残るかである。

仏教の定着について互井氏は、「現在の日本仏教は死者供養を中心とした仏教である。儒教・道教と結びついた仏教が伝来し、日本の風土(神道やアニミズム)と融合し、大きな変革を幾度も経て、現在に至った。」と記し、更にその具体的な姿を、「お盆に死者(の霊)が帰ってくることも、お墓に亡き人の霊が眠っていることも、死者にお経を上げると成仏することも、何の抵抗もなく受け入れられている。その仏教的風習を大切にしてきたのは村などの共同体であり、家であった。」と解説している。

この文章を読んで、日本仏教の本質について、素人ながら考えるヒントを得たように思った。そこで、以下に私の日本仏教についての考えを書き記す。

2)元々インドで発生した仏教は、色界を空、つまり物質からなる現世に実体はないと捉え、その知恵(般若)を正しくつければ、現世の宿命である生病老死など四苦八苦から超越すること(つまり解脱)ができるとする宗教であると思う。仏教はあくまで苦(思い通りにならないこと)を個人の問題として捉え、そこからの超越とその方法を教えるのが本来の姿であると思う。その知恵は真理のことばであり、それを理解することが解脱である。

日本に伝来した当時の仏教は、ほとんど上流階級のものだった。ほとんどの人が仏教伝来前に持っていた宗教は、神道である。日々の食料調達にすべての神経をすり減らすような生活に生きている個人は、八百万の神々の怒りにふれないように、ただひたすら祈りを捧げる。
仏教の大衆化に伴って、この世の心配事である“災難や自然現象”に関することは神道に任せて、日本独特の(死者の)霊を弔う形の仏教へと発展したのだろう。そして、仏教と家族制度、そして地域共同体が、それぞれ日本独特のものに、トータルとして調和的に出来上がったのだろう。

この日本仏教の本質は、「この世とあの世を跨いで、先祖、自分、および子孫の霊魂が一体となってそのつながりを確保し、それを永久に保つことで、一族のすべての霊が救われる」ということである。つまり、自分が死亡した時には、分断されていた先祖の霊と親族関係を回復し、現世から来世に亘って揃って安心立命の境地を得るのである。つまり、先祖の供養は自分の本質である霊魂と先に霊魂のみとなった先祖との繋がりを確保することである。

供養の文字通りの意味は、供え養うことである。つまり、この世に生きる子孫が墓の手入れを始めとして、法事などの供養をしてくれなくては、あの世の先祖の霊が糸の切れた凧のようになり、安泰で無くなるのだろう(補足)。つまり、“家”とは過去から未来へと、そして、この世とあの世の境を超えて永続的に存在する、一族の霊の住処なのである。そして先祖の墓は、あの世に存在する家とこの世の家とを結ぶ大切な門であり、それを荒廃させてしまうと、”家”の永続性がとぎれてしまうのである。

日本の仏教は、このように魂の永続と家という親子親族関係とを関連つけた宗教であると思う。もちろん宗派によって、この平均的な日本の仏教像からズレが存在すると思う。浄土真宗は、上記のような傾向が少ない筈である。しかし、それも時代とともに平均的日本仏教に近づいたのではないだろうか。

補足:この先祖供養は、神道の鎮魂を取り入れたものだと思う。そして、神道と日本的仏教は渾然一体となっているとも考えられる。つまり、死者はすべて神となると考えれば、供養と鎮魂は同一のものとなり、靖国神社への参拝は仏教の墓参りと同じものとなる。

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