2016年2月17日水曜日

米国への宣戦布告文書が遅れたのは、米国大使館員の所為なのか?

日本軍が真珠湾を奇襲した翌日、ルーズベルト大統領が個々の爆撃された場所の名前をあげ、憎々しげに米国民にむけその事実を放送した。それまで戦端を開くことに消極的だった米国民の戦意を一挙に高め、日本の敗戦がその時点で決まった。

ウィキペディアの真珠湾攻撃の項目を見ると、以下のように書かれている。アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」を手交する。日本は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を発して、米国と英国に宣戦を布告した。この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまった。そのため「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」と、アメリカから批判を受ける事となった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/真珠湾攻撃#.E5.AE.A3.E6.88.A6.E5.B8.83.E5.91.8A

この米国大使館員の手落ちによる通告の遅れは、ほとんど昭和史を勉強していない時点でも、よく知っていた。その後読んだ本での記述例をあげる。例えば、半藤一利著「昭和史」では、「大使館の外交官どもの怠慢というか無神経が災いし、結果的に通告が一時間遅れたという、歴史にあってはならない破廉恥な事態になったことはご存知だと思います」(平凡社、文庫版189頁)とある。

また、最近少し目を通した、中曽根康弘元総理の本「自省録」(新潮社、2004、30頁)にも、「日米交渉の最終局面で、ワシントンの日本大使館で暗号を解読し一刻も早く届けるべきところを怠った官僚の罪は万死に値します。ところが、この外務官僚は処罰どころか、戦後は優遇されて外務次官にまでなりました。」とある。

この件、井口貞夫の子の井口武夫は、宣戦通告遅延問題について、父親の勤務していた駐米大使館に落ち度はなく、通告の遅れは全て本省と軍部が責任を負うべきものであったとの主張を行なっている。(ウィキペディアの井口貞夫の項参照、なお、井口武夫は「開戦神話—対米通告は何故遅れたのか」を中央公論より出版している。)

この井口武夫氏の通説への反論を裏付ける資料が、2012年の秋に九州大の三輪教授の調査により米メリーランド州にある米国立公文書記録管理局で発見されたという。日経新聞2012/12/8朝刊の記事である。宣戦布告の本文電報は、1-14部に分かれた公電902号であり、1-13部は通常通りの時間に送られたが、二つの訂正公電903と906がその13.5-14.25時間後に送られ、そして最後の公電902号の第14部の打電が、真珠湾攻撃の10分前だったというのである。

軍部と外務省が最初から奇襲を計画し公電を遅らせたのだが、それを米国大使館員の不手際としたのは、外務大臣郷茂徳外相が重い罰を科されないようにするためらしい。

それは、今回とは別に三輪教授が国立公文書館で発見した「A級裁判参考資料 真珠湾攻撃と日米交渉打切り通告との関係」が証拠である。通告文の遅れを在米大使館に責任転嫁するとした弁護方針を記した資料ということである。http://www.nikkei.com/article/DGXDZO49302190X01C12A2BC8001/

そして、米国で文書をタイプした外務官僚が、その後外務次官まで出世した謎もとけるのである。これらの事実を知れば、中曽根元総理も憤慨でき無い筈である。

米国は公電を傍受しており、上記事実は重要でないという意見を言う人が多いかもしれない。しかし、それは全く違う。なぜなら、奇襲が米国民の戦意を高めたことのほかに、国民は日本政府の発表する歴史を信用できなくなるからである。

国連の女子差別撤廃委員会の対日審査会合が16日、ジュネーブで開かれた。 杉山晋輔外務審議官が慰安婦問題について、「日本政府が発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行は確認できなかった」と述べた上、昨年末の日韓外相会談において「日韓間で最終的かつ不可逆的に解決されることが確認された」と説明した。しかし、戦後、上記宣戦布告文書公電の原本同様、関連資料を廃棄したのではないかという疑いが残る。

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