2016年2月16日火曜日

日本の言語文化:何故日本人は難解な言葉を使いたがるのか?

思い向くままに、いつもの日本語論議を以下に書きます。つまらないかもしれませんが。。。

1)現在政治家がよく使うことばに、慙愧に堪えない、忸怩たる思い、矜持を保つ、遺憾の意を示す、などがある。これらの言葉は発言する方も相手の心に語りかけている様に思えないし、聞く方も単に頭上を越えるような感覚をもつと思うが、その様に感じるのは私だけだろうか?

つまり、日本語で語られる言葉には、現実から離れて“宙に浮く様な”不思議な性質がある。それは日本語文化の特徴であるが、その原因の一つには借り物の言葉である漢語を多く使うからである。

政治家がこのような難解な表現を用いる理由は、“教養を言葉で飾るように”喋って、有権者の評価を上げることが一つだろうが、もう一つの理由は、自分の心の中でその言葉がほとんど反響しないため、気分的に楽だからだ。

例えば、慙愧という言葉の意味であるが、辞書には:ざんき=自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること、とある。“自分の見苦しさや過ちを反省する”という言葉をそのまま話すことは、一応高いプライドを持つ政治家には至難の技である。つまり、これらの言葉は通常あまり使われないため、喋っても心に響かないのである。

また、何か悪事の証拠を示され追求された政治家は、決して「わすれました」と言わない。それは日常語でわかり易い為、発言する側から聞く側にストレートに伝わるだけでなく、その言葉が自分の心をも攻撃するのである。従って使う表現は決まって、「記憶にありません」或いは「失念しました」である。その言葉の意味は「わすれました」と同じだが、聞いた側を煙に巻くだけでなく、自分の心も重く沈まないのである。

しかしである。心の中で反響するのを感じつつ、相手に向かって言葉を発するのが、人間にとっての喋るということなのだ。

2)ここで、慙愧という難解語の誤用例を取り上げる。安倍総理が第一次内閣のときに、松岡農水大臣が政治と金の問題で自殺した件で、「慙愧に耐えない」と発言し、ネット上で話題になったことがある。

松岡農水大臣の件の詳細はウィキペディアなどに譲るが、それは安倍総理が心に深く恥じることではない。従って、慙愧という単語の意味を十分ご存知なく、誤用だったのだろうというのがネット上での結論である。(http://techpr.cocolog-nifty.com/nakamura/2007/05/post_7d01.htmlなど)

慙愧という言葉の慙や愧という感じの意味を知っている人は、漢字検定一級を取った人以外にはほとんどいないだろう。総理大臣と言っても、知らない可能性は十分ある。財務大臣が未曾有や踏襲が読めなかったのだから。(最近では、北方領土担当大臣が歯舞が読めなかった。)

一般に言葉は、貨幣と同様社会のだれもが使えることが前提の筈である。従って、このような誤用の背景には、日本文化の中では「言葉は、自分の意思を相手に直接伝達するために用いられていない」という了解があるようだ。

3)日本の言語文化は不思議である。そして思い出すのが、幼少期に聞いた御詠歌やお坊さんが仏壇の前で読む経である。なんの目的であのような訳のわからない歌や漢詩にリズムをつけて歌うのか?(補足1)相手を意識して読んでいるのか?相手はだれなのか?

日本では、相手が一人の場合は、意思の伝達は本来以心伝心でなされることを理想とする。言葉を用いるのは次善の方法である。言葉を多く用いる人は饒舌な人物と軽蔑される。そして、寡黙は日本では誉め言葉である。何かの説得に言葉で応じると、「言葉じゃないのだ、態度で示せ」という風に軽蔑される。

相手が多数の場合は、改まった雰囲気で言葉を空間に電波のように投げかけるのである。聴く人はそれを受信機で受け取るのだ。その典型的な例は、何かの式などでの挨拶(スピーチ)や、街のあちこちに掲げられた「ゴミのない町、⚪⚪市」とかの掲示である。

補足:
1)般若心経の中の有名な色即是空&空即是色の是は、中国語のBe動詞であるので、集合の記号∈を用いると、色(形あるもの)∈空(実体のないもの)&空(実体のないもの)∈色(形あるもの)となる。これは色と空は等価であることとなり、単なる言い換えでなければ論理的に有りえない。(人は動物である&動物は人であるなら、人以外の生き物は動物ではないこととなる。)

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