2016年3月27日日曜日

読書の意味を考えた

1)卒業と入学のシーズンがやってきた。学校の光景として、校庭に置かれた薪を背負いながら読書に励む二宮尊徳の銅像を記憶しているひとは多いかもしれない。しかし、どんな本を読んでいたのか、説明などなかったのではないだろうか。http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20120127/ninomiya

上記サイトによれば、二宮尊徳は儒教に関する本を読んでいたのではないかと書かれている。テレビなどの時代劇をみると、学校(寺子屋)では儒教、例えば、論語の文章を丸暗記する場面が多かったと想像する。もちろんその中には知恵がたくさん含まれている。例えば、「子曰く、学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ちあやうし」は学習のあり方を適切に指摘していると思う。

つまり、本を読んで学んだつもりでも、自分の考えとして取り込めなければ(消化不良の形で単に記憶に残るだけでは)、知恵とはならない。また、何かを考えても他人の考えを取り入れて(読書や学習で)自分の考えを磨かなければ、独善に走る可能性がある。

社会の指導層は、読書し学んだ者でほぼ占められるが、彼らが消化不良の情報を元に動けば、社会を間違った方向に導く可能性がある。その典型例として、マルクスの本を読んで、消化できずに国を率いた悲劇が挙げられると思う(補足1)。

2)一般に、本を読んでも消化不良に終わる場合がほとんどである(補足2)。食べ物と同じで、消化不良の部分が排泄されるだけならほとんど害はない。しかし、吸収された場合、つまり、丸暗記と誤解の形で記憶に残った場合、その読書はむしろ有害となる。

もちろん、個人的にはその本を読了したという快感が残るので(浪費した時間を考えなければ)有害とばかりは言えないかもしれないが、社会にその消化不良の知識をばらまけば、社会全体では有害となる。政治のスローガンに用いるとか、ネット上に公開することで、人を惑わすことになるからである。(補足3)

どうすれば読書の害を無くするか? 

まず常識を動員して、人心を惑わすような本を見分けて読まないことである。しかし、古典として残った名著を読む場合、当時の時代背景を考えて読まなければ誤解は心の底にまで達する可能性があり、注意を要する。例えば、論語の「人に大切な心は、仁である。仁は、親に対しては孝、主従の関係に関しては義、仲間に対しては信である、全ての人に対して礼を保つ」などと説かれれば、かなりの説得力を持つ。

しかし、均一(注釈1)で狭い社会空間を前提にした思想であり、現在のように世界の価値観が交錯する時代の価値の物差しとしはそれほど有力とは言えないと思う(補足4)。“正しい”とか“真理”とか言うが、それらは所詮その社会での多数派の考えに過ぎない。万有引力の法則も多数派の意見であり、それは“科学的”に証明できる考え方ではない(補足5)。

従って、本の与えてくれる知識や知恵を理解したとしても、それらは自分が思考するための道具として用いるべきである。知的活動の主人公はあくまでも自分であり、自分が思考し自分が判断しなければならない。そのように考えて本を読むというのが、上記質問のひとつの答えになると思う。

つまり、人間は他人と知識を共有することはあっても、本質的には知的に独立した存在である。従って、その独立のプライドを失ったヒト科の動物は、ホモサピエンス(知的人間)とは言えないと思う。パスカルの言葉をモジルと:「人間は考える葦である。しかも孤独な葦である。」

補足:
1)資本論は精緻に資本主義経済を論じているのだろう。しかし、その成果からの遠望としての未来社会のモデルを、現実の政治で利用したのは何故なのか? 資本家から資本を取り上げて共有とし、共産主義社会を建設する。そして、労働者は「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ことができる。精緻な理論とその杜撰な政治利用との間のどこかに、大きなインチキがなければ社会主義の失敗は説明できない。
2)二人は昼も夜も聖書を読んだ。だが私が白と読んだところをあなたは黒と読んだ。 (英国の詩人 ウィリアム・ブレーク)
3)これは、自分で自分の首を絞めるような言葉である。ただ、ネット上で公開した場合、一定の説得力がなければ、読まれないので害は少ない。一方、政治的に既に著名な人間によりブランドラベルが貼られると、読む人が多くなり有害の度合いも大きくなる。 4)机上の空論を繰り返して出来上がった精緻な空論の体系に思える。そのような現実離れした精緻な空論は、現実に利用されれば、例えば、皇帝による人民の家畜化指針などに用い得る。
5)自然科学の法則は、正確には仮説(仮定としておく説)である。それを元に、実験結果が例外なく説明された場合、それを法則と呼ぶ。
注釈:
1)人の身分には上下があるが、その”構造が社会(国家)全体で一定である”という意味で”均一”を用いた。

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