2016年3月24日木曜日

日米安全保障条約の改訂(1960年)について

以下は、最近読んだ片岡鉄哉著「日本永久占領」と外務省ホームページなどから得た情報を元に、日米安保条約の改訂について書いた私的メモである。本文中の引用ページは、「日本永久占領」の頁を示す。

1)戦後サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保証条約が締結された。この条約は、講和条約締結時に軍隊を持たないために、日本が防衛の為の暫定措置として米軍の駐留を希望し、米国も同意するという形で締結された。

旧安保の各条文の概要を書く:
前文には、「合衆国は日本国が攻撃的な脅威となるような軍備を持つことをさけつつ、侵略に対する自国防衛のため漸増的に自らの責任を負うことを期待する」と書かれている。
(第1条)米国は日本国内に陸海空軍を置く権利を得る。日本に駐留する米軍は、極東における国際平和維持に寄与し、日本国内の内乱や騒擾の鎮圧、日本への外部の武力攻撃に使用できる。
(第2条)日本国は米国の事前の同意なくして第三国に軍の基地使用、駐兵や軍の通過権利を与えない。
(第3条)米軍の配備を規律する条件などは両国間の行政協定による。
(第4条)日本区域における充分な平和維持の措置が他に生じた時は、効力を失う。(第5条)この条約は批准を要する。

この条約は講和条約後のものとしては、米国への隷属的な内容であり、改訂は自民党政権の課題であった。しかし、その時期については自民党内でも大きな開きがあった。当時その考えが希薄であったのは、吉田茂一派だと思う(補足1)。河野一郎や岸信介らは、憲法改正と安保改訂を早期に且つ同時に行いたかったが、吉田茂らの反対意見が強く、首相の岸はかなり早い時期に憲法改訂を諦めた。

改訂案では(岸内閣がマッカーサー二世駐日大使らと共に作ったものだと思う、詳細は後日触れる予定;当時大統領はアイゼンハワー、国務長官はダレスであった。)不平等な条項が一部削除されたり表現が和らげられたりしている。つまり、①米軍による内乱鎮圧の権利は削除された。②第三国の軍の通過権を排除する文章もなくなった。③極東有事の際に条約の実施に際して、事前協議を行う規定(第4条)が追加された。 ④“米国は日本に陸海空軍を置く権利を得る”という表現は、“陸海空軍を置くことを許される”という表現になっている。また、⑤条約の形態として相互協力的なものに変えられた:つまり、第5条で、「両国は日本国内での一方に対する攻撃は自国への脅威と解釈し、自国の憲法の範囲内で共通の危険に対処する」が追加された。

また、旧安保の第4条の代わりに、第10条で「どちらの国も10年後に条約終了を通告でき、その場合、1年後に条約は終了する」となっている。これが改定時の安保騒動に加えて、更に10年後にも安保騒動が起こりえた理由である。この条約では、国連の活動を非常に重視している様に書かれている。

ただ、肝心な点には何も触っていない。それらは、憲法の改正と軍備保持である。従って、改正案での変更点は、旧安保の包装紙を変えた様なものかもしれない。

2)重要な点は、旧安保は第4条にある様に、暫定的なものであり、日本が憲法改正と独自軍を保持することと同時に解消されるべきものであった。その点に最後まで拘ったのは河野一郎であった。「憲法改正、不平等条約改正、再軍備、自主外交の全てを骨抜きにした以上、河野は梯子を外された失望を味わったであろう。国を思う熱いナショナリズムで結ばれた同士関係(岸と河野)はナショナリズムという鎹を失ったのである」(452頁)と上記本には書かれている。

従って、岸信介は吉田茂の応援を得て、この安保改訂を成し遂げることになるが、それは岸の面子を保つ意味はあったが、日本がまともな独立国になる機会を無くしたことになるのかもしれない。岸の河野との同盟を諦めて、吉田の協力を仰ぐことになる姿勢を、上記本の著者は“両岸”と呼んでいる。(補足1及び補足2)

この安保条約改訂に反対する運動が、社会党や大学生の左翼的組織により日本列島を揺るがせた。所謂60年安保闘争であり、東大では女子学生が一人死亡した。安保改訂は日本が米国に隷属するという形を少しではあるが、解消するものであり、社会党や共産党には本来反対する理由はない。しかし、社会党は安保改訂阻止を掲げて国会を混乱させていた。

従って、安保改訂に対する反対というより、日米安保体制に対する反対であり、それは社会党の行動から明らかだった。つまり、安保改訂論議が始まるまえに、警察官職務執行法の改訂が岸内閣により提案された時(結局審議未了)、社会党の風見章訪中団の共同声明に、「日米安保条約破棄」と「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵である」という文言が入っていた。その翌年3月(1959年)の浅沼訪中の際の共同声明として発表された。(443頁)

現憲法下では、米国との同盟関係は日本の防衛にとって不可欠である。このような反日政党が国会の1/3の議席を占めていたこと、そして、東大や京大などのトップ大学で、学生たちが安保反対の大騒ぎを起こしたのは、日本国民の心の中にナショナリズムの感情はあっても“国家”という思想がなかったことを証明していると思う。

3)上記本「日本永久占領」の日米安保改訂の部分は非常に退屈で、読み終わるのに時間を要した。それは政争のための政争が延々と続くから、面白くないのである。その政争は、マッカーサーが育てた社会党や自民党官僚政治家らが、国家としての形を回復したいと考えた岸信介や河野一郎らの政治家と「国家」という概念の重要性(の感覚)を共有しなかったことが原因で生じたと思う。

この原因として、占領政治が日本から国家という骨組みを粉々に破壊したため、戦後いつまでたっても「国家として片輪の状態にある」という説をよく聞く。その「」内の言葉は意外にも、実際にマッカーサーが作った骨抜き憲法を擁護し、マッカーサーの下で権力を築いた吉田茂が、池田内閣の所得倍増計画で経済に集中していたときに発した言葉である(吉田茂“世界と日本”番町書房、1963;補足3)。しかし、「一旦国家という枠組みを国民が得ていたのなら、党人政治家がほとんどパージされたとしても、このようなことになるのだろうか?」という疑問は残る。

日本人も他の国同様十分強いナショナリズムを持っている。しかし、それが現実の政治体制の中に希薄にしか存在しないのは何故か。それは、一般国民の間に「政治は、明治の時代から薩長&貴族によるものであり、平民の関与するものではない」という意識が強くあるからだと思う。それを変えるには、有識者一般が投票する側だけでなく、投票される側に立つという形での政治参加に義務を感じる“空気”を醸成すべきであると考える(補足4)。

補足:

1)朝鮮戦争が勃発して、米国は再軍備を要求するようになった。吉田茂は「日本は貧乏であり再軍備など出来ない」と、マッカーサー1世の作った日本国憲法を逆手にとり、且つ、経済援助を要求することでこれを避けていた。それに対して、米国極東司令部のマグルーダー中将は、「日本をまず富裕にしてから軍事的に強化するという概念は、日本人の倫理的体質を弱め、日本が自衛能力を獲得することを無期限に延期するだろう」と発言した。また、アリソン駐日大使は「日本は自由陣営を支持するともしないとも、確固たる信条がないのだから、我々が勝ち馬であるときだけついてくるのだ」と報告している。(301頁)

2)このような改訂になったのは、中国共産党と台湾の金門砲撃(金門・馬祖砲撃)で、米国は台湾を後ろで支えることになる。条約を完全に対等なものにし、憲法改正と独自軍保持を行うと、日本も米国とともにこの種の紛争に直接関与することになる。その覚悟を問われることになり、自民党も左派を中心にして、二の足をふむことになった。

3)吉田茂も、当然のことながら、早期に憲法を改正して自国軍を持つ独立国家となることが理想であったと思う。しかし、GHQの存在下での脆弱な経済の回復が緊急かつ最優先の課題だったという言い訳を準備して、より安易な道を選択したのだろう。しかし、憲法改正と自国軍の保持は、経済復興の後で行うと考えることは、幼児に対して言葉を覚えさせてから歩行の訓練をするようなものだろう。

4)例えば、大学と名のつく全ての教育機関で教授及び准教授であった者に対して、60歳で定年退職し市会議員などへの立候補を義務化すればどうか。あるいは、国民に対して政治家になってほしい知識人を選挙の際にパソコン画面の中から選ばせる。そこで、一定数以上の票を得たものに選挙に立候補する義務を課するのである。もちろん、運動をしなければ落選するだろう。その場合は供託金没収(職場で選挙費用引当金の形で積み立てておく)という形で、これまで日本国のお陰で出世してきた礼金として諦めてもらう。しかし、何人かに一人は積極的に運動するはずである。これは極論である。しかし、橋下徹のような素人から政治家になる人間を日本に数千人誕生させれば、日本の政治は変わると思う。

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