2016年7月19日火曜日

百田尚樹著「永遠のゼロ」の感想(1)

1)百田尚樹著「永遠のゼロ」を読んだ。面白く且つ勉強になる本である。航空兵として戦争に参加した祖父宮部久蔵の足跡を孫(姉弟、佐伯健太郎と佐伯慶子)が追う形で、太平洋での日米海軍の戦いの実相に迫る作品である。航空兵だった宮部の日本人離れした特異な人格と天才的な戦闘機操縦技術などに加えて、ストーリーが現実性に欠けることが気にはなったが、宮部と接触した戦友や部下などの語る日米交戦の様子は詳細且つリアルであり、最後まで興味をもって読むことができた。

戦争の真実に迫るには、マクロなデータを追うだけではなくほとんど不可能である。個々の兵士がどういう思いで戦闘に参加したか、その戦いぶりはどの様であったか、戦場の現場はどのように見えたか、指揮官の命令を現場ではどう考えたかなど、ミクロな視点での解析が、日本本土の軍令部や参謀本部などの実態を知る上でも必須であると思う。それは例えれば、海のレベルがわからなければ、山の形容は不可能であるのと同様である。

ストーリーはこの戦争の実態に迫る具体的な話をつなぐ為のものであり、主なるテーマではないと思う。この本では、全体として閉じたストーリーを完璧にある枠の中に入れ込んでいる。そのため、あまりにも非現実的となり、大衆文学的臭いが嫌いな人は引っかかるだろう。ただ、それが理由でこの小説を忌避するのはあまりにも勿体無いと思う。米国のある水兵の語りとして書かれた、プロローグとエピローグ(補足1)は、この小説の外から見た景色が描かれている。

カミカゼ特攻隊員の心理や家族に対する愛情、戦場における異常な心理などについては別途書く予定である。

2)この小説で著者が強調したかったのは、日米で戦争の戦い方に大差があったことだろう。日本は敵を攻撃することを中心に戦闘機などの設計や兵士の戦い方を考え、防御に関してはあまり配慮する気持ちがなかった。例えば、日本の0戦は軽く航続距離の長い機動力に富んだ戦闘機として設計されていたが、搭乗員を銃弾から守る防御板は薄く、小隊内の連絡さえ満足にできない無線しかなかった。

一方、米国は戦争を、作戦、攻撃、防御、補給、開発など多面的に捉える論理或いは文化があった。戦闘機のグラマンは搭乗員を銃弾から守る防御板は分厚く作られていたし、飛行機から脱出した兵士は出来るだけ救助する体制を敷いて戦闘に臨んだ。そして撃墜され生き残った搭乗員は、貴重な反省のための情報をもたらし、且つ、再び熟練した搭乗員となって復帰した。その結果、1943年に開発され配備されたグラマンF6Fの攻撃性能は0戦を凌いでいた。更に、空母等の戦闘機に対する迎撃性能も近接信管(VT信管)などの開発で、戦闘能力は格段に進歩し、日本を圧倒した。

その進歩する米軍兵力に対抗するべく始められたのが、情けないことに桜花などを用いた特別攻撃隊(カミカゼアタック)である。この種の肉弾攻撃は、上海事変のときの爆弾三勇士や、真珠湾攻撃のときの特殊潜航艇での攻撃(甲標的9軍神)で既に行われており、特攻はそれを大規模組織的に行う作戦である。米兵はそれをBAKA Bomb(バカ爆弾)と呼んでいたことから、その攻撃効果は明らかである。

最初から兵士に対する扱いに大差があった。熟練した兵士でも撃ち落とされる時がある。上述のように米軍は、海上に不時着した場合でも艦船で救助することに周到な準備をした。それは、熟練搭乗員の価値を米軍は正確に把握していたことを意味している。それに対して、日本軍は熟練した兵士の価値を軽視し、消耗品のように使ってしまった。その結果開戦二年後の日本海軍では、空母からの発艦はできても着艦が満足にできない航空兵が、戦地に赴くような情況にまで戦闘機搭乗員の質が劣化した。サイパンで彼らが米艦隊を攻撃する際、米兵は特攻兵を擁した編隊を「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄するように、撃ち落としたのである。

3)無能な将官たち:
また、兵を消耗品扱いして無駄死にさせる軍令部の将官は、いざ自分が艦隊の指揮に当たる際には非常に弱気となった。真珠湾で第三波攻撃をして無傷の米軍輸送船を撃沈しておけば、戦いはもっと別の進行をしたであろうと言われる。しかし、南雲中将は敵の反撃を恐れて退却した。また、レイテ島での戦いでは、米機動部隊を空母が外海へおびき出す作戦に成功したが、戦艦武蔵や大和を擁した艦隊を指揮する栗田長官は「謎の反転」をして逃げ帰った。栗田長官には、ミッドウエイ海戦のときにも同様に逃げ帰った前歴があった。

幹部の実力のなさについて、調査にあたった孫たちの語りとして指摘されている。その原因の一つに、海軍での幹部兵の出世は、大きなミスがなければ海軍兵学校の卒業時の席次で決まるという人事面の構造がある。「戦争という予測不可能な情況に対する指揮官が、ペーパーテストの成績で決められる」のである。それがそのまま、日本海軍の弱点となったことに軍令部の幹部は関心を寄せるほど優秀ではなかったのだろう。

国家は多層の階級構造をもっている。その階層への人材の配分は、日本では教育機関を出た時に決められ、その後の昇格などの人事移動はプログラムされたもの以外はほとんどない。日本は、層状の身分社会であり、所謂出世は入口で決まる社会である。(補足2)日本軍の場合も全く同じであり、兵から入ったものは下士官以上には絶対になれない。海軍兵学校出身の士官は、操縦技術や空戦技術で叩き上げの下士官にかなう訳がない。しかし、中隊以上の編隊を組む分隊長の指揮官には兵学校での士官がなる。実際には、経験豊富な下士官の搭乗員の方が腕も判断力もあるのにである。

海軍兵学校の成績優秀者など幹部候補生の世界は狭い世界であり、ミスはなるべく表面に出ないように仲良く互いに庇い合うのである。大きなミスさえしなければ、学校の卒業時に示された能力が最後まで順位付けの根拠となる。それは、現在の官僚社会と全く同じである。この人事における層状構造が、下士官以下の兵士を消耗品と考える原因である。

以上が、「永遠の0」から学んだ日米の太平洋海戦の実相である。

補足:
1)プロローグでは、開戦から2年程の間の零戦との戦いの変化を書いている。開戦当初は熟練パイロットが乗ったゼロ戦は魔王のような恐ろしさがあったが、2年程たったマリアナ海での戦いのときには、ゼロ戦は新人パイロットの操縦するカミカゼとなっており、まるでクレー射撃のクレーのようなものだった。しかし、「標的は人間なのだ。もう来ないでくれ!何度そう思ったかわからない」という米兵の気持を書いている。その後2年あまり、日本は決定的な負けに向かってただ将兵や民間人の犠牲を積み上げるだけの戦いを続けるのである。
エピローグでは、主人公である宮部久蔵の乗ったゼロ戦による凄まじい特攻の様子が描かれている。屍体の上着のポケットから出てきた写真には、着物をきた女性の赤ん坊を抱いている姿が映っていた。敵味方に別れて殺し合いをする兵士であるが、等しく家族を愛する人間である。艦長は、その高い技術を持った勇ましい兵士に敬意を抱いて、水葬で葬ることを命令する。

2)この入り口社会になる理由は、門に入ったのちの競争は個人間や派閥間の足の引っ張り合いを生じ、全体として組織の力を落とすことに繋がるからだろう。それは、日本社会では個人が自立していないため、個人の客観評価が組織内でできないのが原因である。組織外から個人評価をするのは、専門的知識の欠如や現場に目が届かないなどの理由で一般に困難である。

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