2016年12月9日金曜日

日本国憲法とお経について:日本語の欠陥に関連して

1)日本語は、論理的な議論に向かない言葉である。その論理展開の不自由さを埋め合わせるように日本語に生じたのが、言葉に予め価値や意思などを含ませることである。つまり、単語一つで意思、感情、そして情報の伝達をある程度行うのである。例えば、一人称主格は英語ではI(私)だが、日本語では私の他に、俺、僕、拙者、小生、我、我輩など10数個の単語がある。その中から一つを選択した段階で、元々の意味の他に背景や感情などを伝達するのである。

単語に価値とか善悪を暗に含ませることは、日常会話でも普通に行っている。もちろん、善や悪の様に価値の尺度を直接示す言葉は英語でも何語でも存在するが、そういうことではない。例えば、「女」という単語には悪を、「女性」という単語には善悪とは無関係という価値(辞書にない共通の感覚)を植え付けているのである。

それは、NHKニュース等でよく聞く以下の文章を見ればわかる。「昨日、50歳の女が隣家に押し入り、65の女性を暴行し、全治3ヶ月の怪我を負わしました」の文章で、“女”という単語と“女性”という単語は、入れ替えることはできない。何故なら、上記のように女は悪い方に使うと決まっているからである。女という単語を使って、女性の意味を表すには「女の人」と人をつける。「人」は一般に善良なる社会人を意味するからである。従って、「人でなし」は悪い人であり、善良なる性質を失った人のことである。

辞書に記述されない価値や善悪などの意味を言葉(単語や文章)に含ませるのは、日本語に独特だと思う。この言葉の使い方は、論理展開なしに情報伝達が行えるので意思伝達の効率を上げることになる。なぜなら、「あの女」で始まる言葉を聞く人は、話手がこれからその女の人を非難することが予め解るからである。

2)この便利さは同時に危険性でもある。つまり、一旦社会に受け入れられた言葉に、人々は金縛り状態に陥ることが往往にしてあるからである。例えば現在の日本国憲法を考えてみる。用いられた単語とそれによる文章に付随した絶対的価値のため、憲法前文や9条第一項を変更することは、日本国民にはできないのである。

前文の2節目の最初の文章は、美しい単語、「平和」、「崇高」、「理想」、「公正」、「信義」などで飾られている。それらは議論を通して定められたルールではなく、ただ拝むだけの対象でしかない。憲法9条第一項も同様に、読経のように唱えるのには美しいが、論理は滅茶苦茶である。(補足1)

もう一つの日常的な例をあげる。11月中旬になるが、帰省して父親の法事に参加した。そこで何時ものように坊主は仏壇の前で経を読む。般若心経から始まり、その他に二つ念入りに読むのだが、参加者は全てその意味を知ることはない。ただ仏壇に向かって座り、こうべ(首)を垂れているだけである。頭の中では、それぞれが全く別のことを考えているに違いない。

このように、文章を聴きながらその意味を考えずに拝む習慣は、議論や討論の習慣とは同居しない。その結果、日本人に出来る議論に似た行為は、口論と喧嘩だけになってしまったのではないだろうか。

経でも憲法でも、その言葉の意味ではなく、その言葉自体が有難いのである。それを象徴する出来事として、玉音放送がある。大日本帝国(補足2)が、天皇の決断により連合国側の示した降伏の条件(ポツダム宣言)を受け入れることになった時、天皇陛下の言葉が全国放送された。多くの国民はその意味がわからなかったが、土下座して有難い天皇陛下の言葉を聞いたのである。(補足3)

3)その日本語の特徴を巧みに利用する連中が永田町にも大勢いる。強行採決という言葉がよく新聞にも掲載されるが、それを与党の横暴であると考えている人も多いだろう。しかし、「民主主義」を標榜する国家なのだから、一定の議論の後、議長の判断で採決するのは「強行」ではない。「強行採決」は「強行」という悪い意味を「採決」にかぶせることで、選挙民にあたかも与党の法案採決をまるでゴリ押しであるかの様な印象を与えるために、野党の誰かが発明したのだ。(補足4)

「陰謀論」或いは「陰謀」もそのような類の言葉である。これらの言葉にも強い負の価値が付随している。そこで、ある二つの勢力間に政治的企みがあった時、どちらかの企みに対して「陰謀」という烙印を押すことに片方が成功すれば、そこで差し当たり勝負は決する。陰謀は悪だから支持を失うからである。

例えば、ウクライナのクーデターとその後起こったクリミアの独立とロシアへの併合が国際的な問題になった時、米国がヤヌコビッチ大統領を倒すべく陰で動いたとの指摘を、日本の評論家や政治家は陰謀論の烙印を押すことで封印した。そして、米国に追従し他のG7諸国と歩調を合わせてロシア制裁に動いた。(補足5)

日本では、テレビで活躍の対米追従型の元外交官の方々が、その封印作業に大きな役割をしたと思う。その陰謀論と烙印を押された意見は、例えば馬淵睦夫氏らによりyoutubeなどで紹介されるのみで、一般のテレビ放送や新聞の報道には決して登場しなかった。

つまり、陰謀論という烙印は真実に目を向けさせないための道具として屡々用いられる。日本ではそれが極めて有効であり、米国のマスコミに話題に上ることでも、日本のマスコミには決して現れないケースが多々ある。今回の米国大統領選でトランプ氏が勝利したが、新しい体制になればロシアとの関係が見直され、上記の件も陰謀論の烙印が剥がされるだろう。

かなり以前から、アポロ宇宙船が本当に月着陸を果たし、船員が月の地面を踏んだのだろうかと言う疑惑がある。「アポロ宇宙船により人間を月に送ったという話は、米国の壮大な捏造である」との疑惑についてのyoutube動画に私もコメントをした。

そこでも、「米国の捏造ではないか?」という議論は陰謀論に分類され、日本では忌み嫌われている。NHKはその説に陰謀論の烙印を押すことに協力する内容の放送を、非常に粗雑な実験と論理で行った。すでに書いた様に、私は月の地面の残されたと言うくっきりとした靴跡と、アポロ13号乗組員が機械船の爆発事故の後、月着陸船に乗って無事帰還したことの両方に疑問を持ち、現在捏造疑惑の方を支持している。

元々善悪の衣を着た言葉の他に、凄惨な出来事を経験した人たちに悪の衣を着せられた言葉がある。例えば、「原子力」と「核」である。広島と長崎で原爆が投下されたことにより、一般市民はこれらの言葉に強い負の意味を感じることになった。前にも書いたが、論理的思考に慣れない人々は、まるで原爆が無差別殺人の犯人のような感覚から離れられないのである。それを利用して、ノーベル賞をもらった人がいる。(補足6)

(18:30加筆編集)

補足

1)9条第一項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」である。希求すれば実現するので、武力の行使は不要である。万が一希求したにもかかわらず実現しなければ、我が民族の希求に誠実さが伴わなかったことを意味する。その場合、我が民族は滅んでも仕方あるまい。

2)自国の名に大をつけるところから、この国の言葉はどこか変である。

3)朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス 日常語と全く異なる言葉で、ポツダム宣言受諾と日本が戦争に至った理由を話された。しかし、その意味が理解できなかった人が多かったというのも分かる。http://news.livedoor.com/article/detail/10471284/

4)日本の主たる野党は、マッカーサーにより反日政党として育てられたという見方が存在する。

5)元外交官の馬淵睦夫氏や外交評論家の田中宇氏らは早くから米国の介入を紹介していた。最近、オバマ大統領がそれを認めたということが、以下のサイトに述べられていようだ。 https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2015_02_03/282671141/

6)核兵器が大量無差別殺人をしたので、核兵器が憎い。そこで、「核兵器は持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を堅持すると言って、人気を得てノーベル平和賞に輝いた人がいた。しかし、「核兵器を日本に打ち込ませず」の言葉はないし、その言葉はむしろ上記三原則と対立する。あの方は、日本人の言語感覚をよく知っていて、それを用いて自分の地位を築き、結果として日本民族を裏切った卑怯者である。

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