2017年2月7日火曜日

本音と建前の対:その外に問題が生じた場合、人は解決できない

1)日常の会話では、“建前”は幾分軽蔑的に用いられて、“本音”が大事であると考える人が多いかもしれない。それは、“建前”という言葉は殆どの場合、“言葉の上だけの理想論”くらいの意味で用いられるからである。しかし、“建前”には元々、住宅などの建設の際、基礎の上に柱や梁・棟など主な骨組みを組み立てることという意味がある。結論を言うと、“建前”を意識することは社会性を持つことである。“建前”は人間以外の動物は持たない。(補足1)

建前は人の心の中に生じ、主に社会的空間に投影される。(補足2) 例えば、「公序良俗のルールに従う」という建前に対して、本音は「自分の欲望に従う」である。その本音を心の隅に押しやって、建前を中心に置く(スタンスを建前の近くに置く)からこそ、社会を作って人は生活できるのである。「人間、一枚皮を剥げば、欲望丸出しのケダモノだ」とよく聞く。戦場など、社会が崩壊した場面においては、その建前を脱ぎ捨てる人が多くなる。そのほか、「差別しない(男女、外見、年齢、人種、宗教などを理由に)、相手の立場に立つ、公平に行う、正義を優先する、言葉を大切にする(約束を守る)、ルールは守る」等々が現代社会の“建前”の要素として在る。

つまり、“建前”は個人を束縛するルールであり、それが“社会の骨組み”として尊重されることが社会の基礎をつくる。“建前”は人類が混沌の中から作り上げた文化の一つの表現である。(補足3)その性質上、“建前”の多くは場面が同じなら個人的にばらつくことは少ない。

2)人は社会において、何かの行動や発言が要求された時、本音と同時に建前を心の中に呼び覚まし、その間に自分の位置を決める。表題は、そのプロセスが取れない時、自分の立場を明らかにできないことを言っている。(補足4)人によって行動や発言が異なるのは、普通本音と建前が同じでも、その間に選択する自分の立つ位置が違うからである。また、その問題で議論ができる(言葉が通じる)のは、この本音と建前の一対が共通だからである。心の中のこの一対が全く異なれば、二人の間の会話は通常直ぐには成立しない。

換言すれば、一般に社会通念(建前)を大きく逸脱した行為を行う人は、大多数の人が心に浮かべる本音と建前の対が異なる場合と、本音を強引に追求する場合のふた通りがある。その行為が法に触れて処罰される場合、後者の場合には罪の意識があるが、前者のケースでは処罰される理由に納得できないだろう。

一例を挙げると、オーストラリアやアメリカにシーシェパードという団体があり、日本の捕鯨を非難して、犯罪的な行為に及ぶ事件が何度か発生した。このケースでは、日本人と彼らでは、本音と建前の対が異なるため、話が通じないのである。(補足5)

社会が急激に変化した場合、本音に対する建前が適当に創造できない場合がある。例えば、同性婚などの性の問題、安楽死などの生と死の問題などは、各人各様の“本音”が社会空間において直接衝突する。そして、終末医療や介護の現場では、殺人にまで発展する場合が少なくない。

そのような問題についても建前を作ることが可能であることを、小説「楢山節考」は示した。つまり、口減らしのための老人の遺棄を、神事として祭り上げることで解決したのである。小説では、老人を70歳になった時に楢山という高い山の頂上付近に遺棄するのだが、その村落ではそれを”楢山参り”という祝い事にしたのである。そして、「人生の名誉ある終結は楢山に参って神の懐に帰ることである」との“建前”となったのである。 

もちろん、老人の本音は生きられるだけいきたいのであり、若い者の本音は不憫だが老人が死なないと自分たちの命も儘ならないのである。主人公の「おりん」は自分から楢山参りの準備を整えて、前日には祝いの酒を集落の人に振る舞い、立派に楢山参りを達成する。しかし、隣家の老人は、最後までそれを拒否して楢山の山麓近くの谷底に捨てられる。楢山参りの後は、そのことに関しては一切口を閉じるのがルールである。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html

3)我々は現在、文明の急激な変化を経験している。しかし、パソコンや携帯電話(スマートフォン)を手にして、インターネットに手軽にアクセスできる時代にふさわしい思考や行動の方法が身について居ない。そして、“本音と建前の対”で現実的な問題を決める習慣が破壊されつつある。個人と公(社会)の二つの空間の他に、サイバースペース (ネット空間)という新しい空間ができたのだから無理もないかもしれない。 

それと同時進行した経済のグローバル化などによる文明全体にわたる世界の大きな変化の結果、世界の政治は混乱期を迎えた。これまで、自由と人権、公正と信義、平和と軍縮、民主主義と三権分立などの言葉で、具体的問題毎に、本音と建前を想定してその間でそれぞれの国がスタンスを決める国際社会が(少なくとも先進諸国では)形成されていた。しかし、その政治文化が破壊され、国際的環境は言葉が通じない世界に成りつつあるのだろう。

それは、ツイッターなどが存在感を増すことで、建前を消失(本音と建前が融合)させたことや、これまでとは全く異なった文化圏の国々が国際社会の大きな部分を占めるようになったことなどで、世界の政治文化の再構成が必要になったのかもしれない。もっとも象徴的なのは、米国のトランプ新大統領によるポリティカルコレクトネスの無視である。 

各国は自国の国益優先という大前提というか“本音”に戻り、新しい枠組みの国際社会が出来上がるまで、話が通じない状況にある。ウエストファリア条約以後の主権国家体制の枠組みに戻らざるを得ないとしたら、そこから再度国際秩序を作り直すのでは、第三次世界大戦になってしまう可能性もあり大変である。米国は今こそ世界のリーダーとして、新しい大きな枠組みの方向(建前)を示す様、努力してほしいものだ。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43150908.html

(2月8日午前10時、後半部分編集あり) 補足:
1)本音と建前を持つのは人間だけである。社会生活の上での“建前”は通常、“公の空間でとるべき立場”である。
2)道徳と重なる部分が多い。多くの場面ごとの建前から抽象化概念化されたものは道徳的概念となる。道徳の対概念は非道徳なので、本音は建前を完全無視した言葉とも言える。
3)進化心理学は現在の人の心理を説明する学問だが、その前提は、人の心理(本音)が進化の過程で変化したと考えることである。したがって、その前提が正しければ、時代によって人の本音も徐々に変化する。
4)山本七平の実体語と空体語の対は、本音と建前の対とよく似ている。これらの関係はできれば今後考えたい。
5)日本でも生き物の命を大切にするという建前はある。しかし、「生物の命をいただいて我々人間は生きている」ので、本音としては捕獲して食料とするか売って富を得たい。一方西欧では、食料にしても何の心理的負担を生じない家畜や魚類などと違って、鯨は高度な頭脳を持った野生動物であり、それを殺すのは非人道的行為(鯨は人でないが)であると考えている。捕鯨という行為を評価する日本の物差しなど最初から無視されているのである。従って、船で体当たりする犯罪行為を行っても罪の意識など全くないだろう。
6)深沢七郎の名作である。

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