2017年2月9日木曜日

日本学術会議の安全保障関連研究に対する姿勢とそれを報じた読売新聞の社説

§1:
読売新聞に昨日掲載の「科学者を縛ってはならない」と題する社説について、感想を書く。そこには、“日本学術会議の検討委員会が、安全保障に関連する研究に対して、歯止めをかける(べきだとする)中間報告をまとめた”とある。(これ以降、カッコ内は筆者が補足;補足1)“その方策として、「軍事的」な可能性(武器等に転用される可能性)のある研究について、大学等が予め「技術的・倫理的に審査する制度」を設けるよう求めている。関係学会にも、研究審査の指針策定を要請する。”と書かれている。http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20170207-OYT1T50142.html

日本学術会議は1967年に、“戦争を目的とする研究”は行わないと表明し、今回の中間報告もそれに沿ったものだと、この社説は解説している。(この“”で囲った部分は、武器や戦術等に関連する研究と解釈される。)

この社説では、”現在開発を急ぐ技術の多くは軍事と民生の両面で使えるもの(デュアルコース研究)であり、軍事利用の恐れ(可能性の意味)があるという理由で研究領域を狭めては、日本の技術力低下は避けられない”として、日本学術会議の報告を批判している。この批判自体はもっともなことであるが、「恐れ」という言葉から、社説の主は軍事利用される研究で差し当たり民生用にならないものなら、学術会議の報告、そして、1967年の表明には賛成のようである。

そう思って読み進むと、最後の方に“日本の安全保障環境が厳しさを増す中、ヂュアルコース研究を強化することは、平和を確保する観点からも国益に適う”と書いている。平和を確保することに寄与するというのは、つまり軍事利用のための研究をするという意味だろうから、どうも社説を書いている人は、ヂュアルコースの両方を支持していると解釈できる。そうすると、上に引用した「軍事利用の恐れ・・・」の文と矛盾する。どうもはっきりしない。

§2:
日本語は、もともと論理展開に向かない言語である。しかも、日本国の軍備に関する基本姿勢が不明確なこともあって、特に防衛問題を論じるときに日本語が乱れる。上記社説でも、日本学術会議の委員会メンバーと読売新聞の社説を書いた方の双方に、日本語の乱れが見られる。

その原因は、安全保障という言葉を理解せずに用いていることにある。更に遡れば、戦争と平和という言葉の意味すら、十分理解していないと思う。つまり彼らを含めて多くの日本人は、戦争と平和は相反する概念であり、平和を愛し戦争を憎む姿勢をとることが理想であると考えているようだ。更に、人間という生物においても、そして、人間が作る国家においても、それが可能であると考えているらしい。

戦争は二つの民族や国家の間での争いであり、平和とは戦争の無い状態をいう。元から右と左のような対概念ではない。自分の属する民族が他民族への隷属状態にあり不満に満ちていても、支配民族は平和だというだろう。極端な場合、被支配民族が殺されていなくなれば、そこには平和が訪れるだろう。国際社会も、その状態を平和というに違いない。従って、目指すのは平和ではなく、自分の国や民族の繁栄でなくてはならない。

歴史が教えるところによれば、二つの国の間に何かの争いがあれば、その解決は外交とその延長上の戦争によりなされてきた。(補足2)そして、自国民にとって大きな不満のない形での平和の達成は、戦争に勝つ軍事力によりなされる。

これは好戦的姿勢をとるべきだと言っているのではなく、生命体である人間が国家を作って有限の資源と面積の地球上に生きる以上、争い(そして戦争)はもともと避けられないという事を言っているのである。従って、国家の安全保障は戦争に勝てるように備えるということに厳密に等しいのである。

  日本学術会議の“戦争を目的とする研究”は行わないとの表明や、安全保障に関連する研究に対して歯止めをかけるという姿勢は、日本学術会議のメンバーが日本国や日本民族の滅亡を期待していることを意味している。もし、そうでないとすると、彼らには日本語と基礎的な歴史等の知識が欠けていることになる。 

このことに気づかない程度の知的レベルの人たちが、日本の研究者を代表する機関を構成するというのは、非常に情けないことである。それだけでなく、論理なき日本語と、日本民族の自分で考えてそれを発表することを蔑む文化がもう一つの原因だと思う。 

(16:30編集)

補足:
1)この部分は、言語表現として非常に理解しにくい文章である。安全保障に関連する研究なら、是非協力しなければならないのが普通の考えである。( )内は、中間報告だけでは何の歯止めにもならないので、筆者の意思を推測して補足したもの。
2)多分これは、クラウゼウィッツの戦争論に書かれていることだと記憶する。しかし、これはかなり文明の進んだ国の間での話であるということに注意すべきである。国家という概念が曖昧な地域では、現在の国際的ルールの下での戦争ではなく、民族間の争いは無制限の殺し合いで解決されていた。18世紀に起こったマオリ族によるモリオリ族の皆殺しと食人についてはすでに書いた。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/10/blog-post_5.html 東アジアでは国際法など通用しないので、マオリ族的戦争になる可能性もあり、日本は防衛を考えるときにそのことも考えておく必要がある。

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