2017年5月16日火曜日

西欧の政治文化と慰安婦問題

1)慰安婦問題には二つの側面がある。それは歴史学的側面と政治的側面である。その両方の側面の存在を知らないと、この問題を見誤ってしまう。その過ちを犯したのが河野洋平氏であり、その慰安婦問題に対する官房長官としての氏の談話(河野談話;補足1)である。過ちとした理由は、政治家が何かについて発言するときは、その政治的側面を見てすべきだからである。

河野洋平氏は、テレビドラマの中での水戸の御老公のような姿勢が、政治家のあるべき姿だと思っているらしい愚者である。現在の国際政治は欧米の政治文化によって動いている。従って、日本という島国の政治家であっても、西欧的な意味で“政治的”に動いてもらわないと困ると思うのである。

政治は英語圏のPoliticsに相当する。その語源から想像すれば、politicsは多く立場(国、人)の衝突学のような意味だろう。単純な物体の運動でも理論的に解決できるのは二つの間であり、3つ以上の物体の相互の動きは解析的には解けない。当事者がどう動くかその動機すらわからない国際政治の場面においては、2カ国間の問題だと思っても3カ国以上が絡んでいる可能性もあり、その対処は難解である。一方的に精一杯の善意を相手にプレゼントするのは、愚物政治家のすることである。

従って、国際政治においては今後の自国と自国民の利益を第一に考えて、交渉をシミュレートすべきである。歴史にも、「勝利者の正当性を作り上げる物語である」と解釈する考え方と、「歴史は事実を元に作り上げた民族や民族間の物語である」と解釈する考えかたの二つがある。(補足2)その中の後者を本当の歴史と考え、且つ、相手方もそのように考えていると期待して、現実の政治を考えることに何の逡巡もない政治家は、害を国民に及ぼすだろう。そのように思う。

2)欧米の考え方は裁判の形式を見れば分かる。裁判では、検察側は犯罪人の悪行を精一杯主張する。そして、弁護側は殺人者の弁護でも、偶然刃物が暴れだしたのだというレベルの弁論をする。その言葉と論理を用いた両者の綱引きの様子をみて、裁判官が落とし所を探すのである。欧米の国際政治(政治文化)も同様だろう。当事国がそれぞれ己の正当性を精一杯言葉と論理(偽かも知れない)で主張して、その綱引きの結果で以て、互いの位置を決定する。

神が居る(或いは居た)西欧では、人は横並びで各人が自分の利益は自分が守るという考えを持つ。つまり個人主義の伝統を持つ(補足3)。自分たちで何かを決めるべき時には、神から与えられた言葉と論理を必死に振り回して、各人の主張をぶつけ合う。それがPoliticsだろう。

一方、人格的な神の居ない日本では、神の代行を“徳のある人間”に期待するようだ。大岡越前や水戸黄門のように、一人の人間に全知全能を期待して、揉め事の裁定を委ねるのである。そのレベルの低い政治文化の中から、自分たちが政治家として選出されているという自覚すら持てない者は、たとえ著名な政治家の家に生を受けたとしても立候補などすべきでないと思う。

3)慰安婦問題では、韓国はその国際的政治文化を学んで、精一杯のロビー活動を米国で行っている。米国が国際政治の中心であることをよく知っているからである。米国も元々、日本の戦争時の悪行を喧伝する韓国を応援する動機がある。それは、言うまでもない。

米国マスコミも精一杯それに協力している。日本の政治家や右派系の人たちは、この米国の元々持つ日本をナチスと同等に扱いたいという欲望を軽視し過ぎである。また、日本の政治家は、米国や国際社会が日本の慰安婦に関する主張を認めないのは、事実を知らないからであると考える傾向にあると思う。

ニューヨーク・タイムズが書くように(補足4)、「植民地から女性を強制連行して性奴隷にした」というストーリーに欧米が固執するのは、事実を知らないからではなく、彼ら或いは彼らを支配する層がそのように解釈したいからだと思う。その様な情況下で、“事実”をいくら宣伝しても、かれらの姿勢は変わらないだろう。

彼らの姿勢を変えるのは、彼らの将来の利益になると考えさせること、或いは、グーの音も出ないほど強力な証拠と論理でもって、日本の主張を世界中に轟かせるしかないのである。それが出来ないのなら、現実的な利益を考えて、欧米流の現実的且つ巧みな外交を行うべきである。それには軍事力も必要である。(補足5) 欧米が事実で動かず感情や利益で動く例はいくらでもある(補足6)。ごく最近のシリア爆撃でも、「アサド側がサリンを使った」とか、そして、「苦しむ子供を見て爆撃を決断した」とトランプ大統領が言ったが、まるで現行犯で黒人を射殺する白人警官の台詞にそっくりである。

勿論、米国は日本の大事な同盟国である。嫌な面も嫌いな面もあるが、言論の自由や人権を重視するという現在の国際的価値を維持している国である。それに、国家と国民を区別するという考えも頭の中心に常に置いておくことが大事であると思う。以上、政治の素人ですが、政治的に考える考え方(保守的)と原理的に考える考え方(左翼的)の両方を区別して用いるべきだとという個人用覚書です。

補足:

1)1993年8月4日、河野洋平内閣官房長官による談話。時の首相はあの宮沢熹一である。
2)岡田元次著の「歴史とは何か」に記載されている。
3)小沢一郎氏の本「日本改造計画」は個人主義が民主主義には必須であると説いている。この本を読んだあとの一時期、小沢フアンになった。
4)The New York Times, “The Opinion Pages (editorial)”, 2007/3/06
5)自国民の教育が第一かもしれない。何度も同じ話を持ち出すが、原爆が憎いのか、原爆を落とした敵が憎いのか、原爆を落とされるような戦争を行った無能な指導者が憎いのか、更に、核物質を発見した学者が憎いのか、それらの区別さえ日本人一般(B層と呼ぶひともいる)は出来ていないのである。
6)「アラブの春」は、民主主義という複雑なメカニズムを同時に組み込んで初めて機能する政治形態を、それと知りながら準備の出来ていないアラブ諸国に持ち込んで、それらの国々を混乱に導いた。それは、2050年問題(イスラム教徒数>キリスト教徒数となった時に生じる問題)やローマクラブの「成長の限界」問題の対策としての行動だろうと疑うべきだろう。その種のターゲットに勿論アジア人も含まれるだろう。それが、東アジアを混乱状態に置きたいという従来の米国支配層の考えだろうと疑っている。この考えは馬淵睦夫氏の本から学んだことである。

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