2017年6月17日土曜日

理系人間と文系人間の考え方と日本の弱点

1)日本での話だが、理系人間と文系人間は考え方にかなりの差がある。それを強く感じるのが、最近の豊洲問題や放射線被曝事件における報道等を見たときである。

この国の行政や各種団体の管理運営などの担当者等には圧倒的に文系の人が多い。彼らの考え方には一定の特徴があり、そして、その考え方が出身大学の学部等(文系)とかなり相関があるのなら、それは文系人間の思考パターンといえるのではないだろうか。以下は、それらと筆者の思考が理系パターンであると考えて導きだしたものである。

もちろん、世の中の人間を理系と文系に分類するのはあまりにも大雑把である。以下は、人間の思考パターンをいくつかあげて、それらが人の群の中に偏在し、その偏在は職業や受ける教育課程などとも強い相関があるという話である。以上を承知のうえ、あえて文系と理系という言葉を用いる(補足1)。

先ず、私が考える理系人間と文系人間の思考パターンを要約してみる。
①理系人間は、自然現象への理解を通して、因果関係、相関関係、集合論的関係などを意識して前面に出した思考パターンをとる。
②文系人間は、人の心理や社会文化に対する思考を通して、人と人の繋がり、社会と個人の関係などを前面に出した思考をする。
③文系人間の視点は自己から他に向かって広がり、思考は各論的且つ現実的である。反対に理系人間の視点は原点に向かい、思考は原理的且つ理想的である。

また③は、理系人間は前提を置かない思考、つまりゼロ(原点)からの思考が得意であるが、それは既に存在している前提を看過する傾向がある。そこから、大きな間違いにつながる可能性がある。それを避けるには、上記以外の知性の部分としての想像力や直感力、そして美的感覚が大切である。

以前のブログで知的能力を、1。記憶力、2。論理・分析力、3。想像力、4。直感力、5。空間的時間的感覚、6。美的感覚、に分けて、それらは生命体としての能力の一面であると書いた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42404287.html 上記の①〜③は、知的能力の1。と2。に焦点を当てた分類である。因みに、大学などの入試も現状ではほとんど、記憶力と論理分析力に関してなされている。

一方、文系人間は、原点からの思考がなく、これまでの前提を不可避の条件と考える知的怠慢の傾向がある。それでは欧米の感覚での普通の改革すらできない可能性がある。改革には常に飛躍が伴うからである。それは、憲法改正や社会の構造改革の問題などに手間取る日本の姿の原因なのではないかと思う。

2)幼少期にはだれもが自然に対する関心を持つが、成長に伴い人と人が作り出した文化に関心を持つようになる。理系人間は、自然に対する関心が自然に対する理解に進み、その深まった興味と理解の正のFeed Back Loopにより、自然科学的な分野を自分の進路に選ぶことになる。自然の成り立ちと運動は、人間とその集合のそれらよりも理解しやすく、比較的容易にそれらを支配する法則に到達できる。論理的能力は、基本的仮説(法則)から自然現象を頭のなかで再構成する際に必須である。以上が、上記①の思考傾向の由来である。

原点から多くの思考の階段を登る際、途中に考慮すべき束縛条件(捕捉2)などへの注意が欠けると、結果として極端で間違った判断に到達する可能性がある。その際、原点から最後の結論まで見通すには、直感力を必要とする。それに欠ける場合、自己の優れた思考力への過信から過激な原理主義に走る可能性がある。

連合赤軍を牛耳っていた、坂東國男と永田洋子やその他の中心メンバーに理系が多い。また、東大闘争の全共闘代表の山本義隆は東大物理学科でも秀才だった。彼らは、遠くを見通す直感力や想像力にかけていたと思う。

文系人間の犯した間違いというか社会の停滞は、既に上に書いた。最近の例では、豊洲市場問題などもその典型である。問題の出発点にあったのは、ベンゼンによる地下水の汚染に対して「人体に対する危険性の定量的把握」という視点が全く都知事に欠けていたことである。

地下水中の環境基準(飲用としての適性)の77倍のベンゼンの危険性を正しく理解するためには、他の多くの危険性と定量的に比較検討することが必須である。この経緯を見ていると、そのような原理的及び論理的考察の形跡がほとんどない。その結果、地下水中の少量のベンゼンという小さな危険(補足3)と、長期間の努力と多額の出費をして建設した豊洲市場への移転を延期するという大きな危険とを交換してしまったのである。

3)幼少〜青少年期に特別な教育が行われなければ、知能に優れた子供は最初理系人間に向かうのではないだろうか。人間は、元々自然の中で生きる動物だからである。一方、高度な社会の中で生きる知恵を、特別なレベル、つまり社会のリーダーに必要なレベルにまで育てるには、早期にその目的を意識した教育が必要であると思う。(捕捉4)

つまり、幼少期に出会う自然の理解と興味の正のfeed back loop から、子供を一旦取り戻す教育の文化がなければ、優秀な国家のリーダーとなるような人材を育てるられないと思う。日本の弱点は、この優秀なる社会のリーダーを育てるメカニズムがほとんどないことだと思う。

補足:
(1)大学の学部への所属数から、理系文系の人数を文部科学省のサイトから拾ってみる。学生を文系(人文、社会科学系)、理系(医歯薬含む)、そのほか(家政、体育、芸術など)に分けた場合の人数比は、平成15年のデータで、理系が28%、文系が55%、その他17 %である。http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/04011501/002/001.htm#1
(2)束縛条件とは最適化問題や運動の問題を考える際に、変数に与える条件のことである。
(3)飲料に供するレベルまで豊洲の地下水を浄化する必要などない。この件、昨年の9月30日詳細に論じた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42994605.html
(4)米国は階層社会であり、上層部にはグロートン校などの全寮制名門校からアイビーリーグの名門大学に入るコースがある。グロートン校の卒業生には、アチソン国務長官(トルーマン政権下)、ジョセフ・グルー(元駐日大使)、アベレル・ハリマン(元ソ連大使、“桂ハリマン協定”のハリマンの息子)など歴史上の人物も多い。

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