2017年6月22日木曜日

民族のアイデンティティーとは何か:勝谷誠彦著「ディアスポラ」の感想

1)ディアスポラは、撒き散らされたものの意味で、普通世界中に散らばったユダヤ人のことを指す。西暦70年のローマとの戦争でユダヤ人の大半が殺され、残ったユダヤ人は世界中に散らばった。本のカバーにはこのユダヤ戦争の絵が使われている。

先づ一言だけ、全体の印象について書いておく。これは非常に野心的な作品だが、設定と話の進行がかなり強引であり、ついていけない読者が大半だろうと思う。小説ではあるが、「民族」、「ナショナリスト(民族主義)」、そして「右翼」などを考える上でも、非常に参考になると思った。

この小説の設定は、以下の様である。原発の爆発事故か何かの大災害が起こり、日本人は最早日本列島には住めなくなる。そこで、生き残った人たちが難民として世界中に散らばることになる。国連の斡旋で一部が中国に受入てもらうことになり、一部は西チベットの高地で暮らすことになった。中国政府がチベット人の村メンシイの一角を強引に日本人キャンプとして提供したのである(補足1)。

管理人兵士を含めた漢人たちやチベットの現地の人たちと一緒に住み始めた日本人は、10数世帯であった。事故で亡くなった人の初盆が近づき、避難民たちもその準備を考えるところから話が始まる。

国連とも非常に太いパイプを持つ秘密組織から、国連職員として調査に送り込まれた諏訪という日本人が語り手である。諏訪の表向きの上司である国連職員のダヤンはユダヤ人であり、ユダヤ人としての話を時に応じてする。話の中心は、諏訪と親しい関係になった内田家の両親と18歳の娘の撫子である。

貧しいが比較的平穏な日々が続いてきたのだが、事の成り行き次第では日本人キャンプの住人全てにかかわる可能性が高い事件が起こる。重い高山病(補足2)に苦しみながら、帰国に備えて飲食店で不許可のアルバイトをしていた母親が、漢人の札付きに殴り殺され財布を盗られたのである。

真相が日本人キャンプを管理する二人の漢人兵士に知れ、犯人の漢人が重く裁かれることになった場合、漢人の援助で生きる日本人キャンプの住人全てに大きな困難が降りかかることになるだろう。最初に知った娘の撫子はそう考え、高山病の急激な悪化で死んだと考える事も出来るので、事件を伏せて死亡したことだけを漢人の係官に報告するつもりだと、諏訪や現地で得た男友達のナムゲルに告げる。そして、父親にも正確な話をしないと決める。諏訪は、撫子が日本にいたなら決してこのような逞しい若者にはならなかったであろうと思いながら、決心した後の彼女の涙に自分の袖を濡らす。

撫子は、年上のチベット人ナムゲルと付き合い始め、この地で漢人の下で生きる上での知恵を学んでいたのである。そして、母の受けた暴力を自分一人と、やがてナムゲルと結婚すれば生まれるだろう自分の子供が引き受けると覚悟を決めたのである。撫子はナムゲルの協力を得て、母親をチベットの風習に従ってあの世におくる決心をする。鳥葬である。(補足3)

2)国連職員として調査に送り込まれた諏訪が、日本人たちの様子を秘密裏にリポートするのだが、その秘密組織は日本民族が再び集まった時に、求心力を持つことができるかどうかに関心があるという。(補足4)当然のこととして、世界にばら撒かれながら2000年という長期間、民族のアイデンティティーを保持したユダヤ人達と比較される。

この本の主題は「民族」とは、そして「民族のアイデンティティー」とは何か、という問題である。語り手の諏訪とユダヤ人の国連職員ダヤンとの対話が参考になる。その部分を以下にピックアップする。

そもそも「民族」とは何なのか。その答えは、諏訪をチベットに送り込んだ組織の主任研究員の言葉として語られている。民族という概念は19世紀になって初めて出来たのである。海にかこまれているという地理的理由から、「日本人」という考え方は自然に成立していたが、近代になって、国家として島から外に押し出していくにあたり、まとまりを作ろうと慌てて作ったのが民族なる言葉なのだと。

では、ユダヤ人の場合はどうなのか? 強いユダヤ信仰についての型どおりの話のあと、ダヤンは本音を言う:「我々の神様だって、そんなに力があるわけじゃない。そのことだけで、民族としての結束が保たれてきたと思うほど私は単純じゃない」と。そして、ユダヤの民も北宋の時代に大勢中国にやってきたことがあるが、水に落とした塩のように消えてしまったと語る。

中国は元々は鷹揚な国であり、清の時代まではチベットには漢人は住んではいけなかったという位であった。そのような環境では、ユダヤの信仰もそれほど必要ではなかったのである。つまり、大事な信仰だからそれを護り通したと言うよりも、周囲(同じ一神教の貧しい人たち)の抑圧から自分たちを守るための団結の印として、その教えを彼らは堅持したということなのだろう。 現在国際政治の場面で話題になっている強固な信仰も、豊かで障害のない日常が彼らに約束されたなら、徐々に消え去るのだろう。

3)宗教や民族のアイデンティティー、更に民族ごとの伝統も、人が協力して困難を乗り越えて生きるための「他の人との間に懸ける橋」のようなものだと思う。あらゆる困難がなくなれば、それらは全て必要がなくなるだろう。しかし、人間としてのアイデンティティーとは、実はその「人と人の間に懸ける橋」にある。

豊かで平和な時代になり、そして全てをデジタル技術とロボットが担当する時代になった時、他人との協力が無くても生きられる。その結果、人は人間ではなくなるのではないだろうか。既にその時代は始まっている。この小説を読み、そのように私は思った。

補足:
1)場所は西チベット国道219号上の小さな町メンシイである。その近くにチベット仏教の信仰の山カイラス山がある。標高6638mの美しい独立峰である。(グーグルマップでの写真<=Click 時間がかかります。)
2)標高約4500mのこの村での酸素濃度は平地の約半分であり、慢性化した高山病は低地に移らなければ治らないとのこと。肺水腫になっていたと書かれている。
3)早朝、山の上の決まった場所に遺体を運ぶ。僧侶がお経を上げた後、死体の処理人が少し離れた場所に遺体を運び、そこでバラバラに解体するのである。処理人が去ったあとは、集団となって舞い降りてくる禿鷹の仕事である。
4)p34に、「世界中に散った日本人たちの集団の中に、新たなる「核」が生まれつつあるのか。“組織”の彼らは少なくともそれが知りたいのだ」「核を見つけ出して日本人を一つにまとめようとする意図と、それに対してどこかから莫大な資金が出ているらしいことに、きな臭い匂いを感じる」という記述がある。私にはこの部分の意味が今一つわからない。
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