2017年7月20日木曜日

「誰が第二次世界大戦を起こしたのか:フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く」を読んだ

1)第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバー(Herbert Hoover;任期1929~1933)の大著“裏切られた自由”を翻訳した渡辺惣樹氏が、主に同書から引用して日本人向けに紹介したのが表題の本である。この本の内容にそって、第二次大戦の原因について考えてみた。

現在の第二次大戦の歴史解釈は、ウインストン・チャーチルやフランクリン・ルーズベルトらの政治を絶対善として解釈したものであり、フーバーは真実とは程遠いと指摘する。この本の中ではその現在標準的に受け入れられている歴史観を釈明歴史観という名称で呼んでいる。一方、フーバーが調査研究し、“裏切られた自由”の中に書いた歴史を、修正主義歴史観と呼んだ。

この本の中で一貫しているのは、つまり、フーバーの“裏切られた自由”の中で一貫していると思われるのは、フランクリン・ルーズベルトは、周囲の意見を聞かずに独断専行的に動いたこと、更に、ソ連を挟む仮想敵国のドイツと日本(それにイタリア)に対して非常に厳しい見方をとっていたことである。

それを示したのが1937年10月5日にシカゴで行った、日独伊を国際社会から隔離すべきだという内容の演説である。(「隔離演説」と呼ばれる)シカゴ市政100年記念式典という全く関係のない場所で、今後国際社会で敵対すべき国々を上げて批判している。ここでソ連に全く言及がないのは、ルーズベルトは隠れ共産主義者だからである。或いは、共産党の世界革命を至上命題と考える一派の、雇われ者かもしれない。(補足1)

第一次大戦の教訓として、米国の第28代大統領のウィッドロー・ウィルソン大統領が出した14条の平和原則の提案とそれによる国際連盟の設立が挙げられる(補足2)。西欧諸国が多大の犠牲を払って得た、平和原則を紙屑同然に扱ったのは、第二次大戦時の米国大統領フランクリン・ルーズベルトと英国のチャーチル、そしてソ連のスターリンである。その事実はまた、一般市民特に兵士など実際に戦争に参加する人たちの命の重みなど、彼らの心の中には全く無かったということである。(補足3)

ウイルソンの14条の平和原則の最初の条文は、「秘密外交の廃止と、外交における公開原則」であるが、これら世界のリーダー達のエゴと秘密外交が、第二次大戦を防止でき無かっただけではなく、人類が経験したこともない程の巨大な戦争にまで大きくした原因だったと思われる。

2)第一次大戦とその後のベルサイユ条約で課された重い制裁により、疲弊したドイツ国家を、国家社会主義という独裁体制を採用して急速に立て直したのがヒトラーである。議会を無視する体制ではあるが、その成果から国民の高い評価を得た。世界大恐慌(1929年)の時でも、成長が止まることが無かった。

ヒットラーが最初にベルサイユ体制へ挑戦したのはオーストリアとチェコスロバキアのズデーテンランドの併合だった。オーストリアの併合では、ヒトラーの優れた経済政策もあり、住民にも歓迎された。(81頁の写真参照)また、ズデーテン地方の併合は恫喝外交的だったが、仲介者である英国チェンバレン首相との会談(ミュンヘン会談)などで同意を得、その後チェコスロバキア(第二共和国)のハーハ大統領との条約によって合法的に進められた。(86頁)

ヒトラーが次に目標にしたのは第一次世界大戦で奪われたダンツィヒ(グダニスク)とソ連侵攻へのルートであるポーランド回廊と呼ばれる部分であった。ダンツィヒまでの奪回は、チェンバレン内閣のハリファックス卿も認めていた。しかし、ポーランド回廊と呼ばれる部分の交渉で、思わぬ事態になった。それは、チェンバレン首相がポーランドの独立を保証したからである。気を強くしたポーランドはドイツとの二国間交渉を決裂させた。そしてヒトラーはポーランドに侵攻し、第二次大戦が始まったのである。

このチェンバレンの愚策の背景に、ルーズベルトの対ドイツ戦略への秘密の約束があったのではないかとフーバーは考えた。その後、当時の米国駐英大使のジョセフ・P・ケネディはフーバーに彼の考えの通りであると打ち明けた。フーバーはその事実を、当時の海軍次官であるジェイムズ・フォレスタルの日記で補強した。(補足4)

ヒトラーは東のソ連と対決する姿勢であったことは誰の目にも明らかであり、そこでその通路にあるポーランドとの交渉において、ポーランドに現実的判断が出来ず戦争となった場合、チェンバレンのポーランドの独立保障宣言は英国を戦争に巻き込むことになる。また、当時の英国やフランスの軍事力は明らかにドイツのそれに劣っていたというのなら、その背後に何かあると考えるのは当たり前である。それがジョセフ・P・ケネディの証言した事実の情況証拠でもある。

一方、ルーズベルトの工作の背景にあったのが米国経済の低迷である。経済政策の失敗の責任を問われたくないフランクリン・ルーズベルトは、第一次大戦で米国が軍需産業の潤いで経済が大きく成長した記憶があったので、チェンバレンの背中を押したのだろうとフーバーは解釈している。正史において、ニューディール政策が成功して米国経済が復活したという風に書かれているが、客観的データがニューディール政策は完全に失敗だったことを示している。(107頁)

以上が表題の本の内容の前半部分を元に、第二次大戦の原因をまとめてみた文章である。私は素人なので、非常に勉強になった。次回は後半部分、日米戦争に関するルーズベルトの策略に関する記述をまとめるつもりである。

3) 尚、全体的な印象を一言追加する。それは、戦争が政治(外交)の延長上にあるという認識(クラウゼビッツの戦争論など)は、現在正しい認識ではないということである。つまり、第一次大戦とその後のベルサイユ条約が、敗戦国ドイツに異常に厳しかったことや、第二次大戦での「無条件降伏」というフランクリン・ルーズベルトの野蛮な提案は、国家と国家の関係を完全に野生の原理に貶めたと思う。

それが、日本の自殺攻撃(真珠湾攻撃)を生み、そして現在の北朝鮮の瀬戸際外交の根拠をつくったのではないだろうか。つまり、戦争は外交の延長ではなく、民族と民族の殺し合いだということになる。「外交の延長としての戦争」という戦争の文化はもはや人類は持たない。ルトワックの「戦争にもチャンスを」の最初の命題「戦争が平和に繋がり、平和が戦争に繋がる」は第二次大戦後はあやまりではないのか。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43331789.html

補足:
1)ソビエト成立後4人の米国大統領はソ連を承認しなかった。しかし、ルーズベルトは就任後直ちにソ連を承認した。また、ルーズベルトの近くに何時も控えていた補佐官アルジャー・ヒスは共産主義者であった。政府内部への浸透は酷く、1949年には政府職員の内3,000人が共産党員であった。内2000名が解雇された。機密保持計画のもと、1953年から2年間に政府職員20000名余が解雇された。(赤狩り或いはマッカーシズム参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%8B%A9%E3%82%8A )
世界での共産主義革命を目指す動きは、現在のグローバリストとその根の部分で共通するという意見もある。
2)第二次大戦の原因の主なるものとして、第一次大戦でのドイツに対する非常に厳しい制裁を含む体制(ベルサイユ体制)がある。この本ではベルサイユ条約の不正義と書いている。(76頁)これに、フランクリン・ルーズベルトは全く関心を示さず、第一次大戦で得た筈の教訓を持っていなかった。
3)この人命軽視の考え方は、砂漠で生まれた一神教の文化の中で生きた人間に固有だと思う。その中でも特に、そして温かい社会環境から遠ざかった人たち、更にその宗教すら幻に過ぎないと気付いた知性ある者は、恐ろしいほどに冷酷なのだろう。
4)この重要な日記を確認したければ、“裏切られた自由”という本を買うしかない。「歴史は細部に宿る」とは正にこのようなことだろう。
(語句等内容以外の編集あり:7/21/12:00)

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