2018年10月25日木曜日

善玉と悪玉が結託して演じた戦後政治

1)善玉と悪玉の戦いと善玉の勝利という結末を演じるのが、大衆ドラマのパターンである。人気を得るにはハッピーエンドでなければならないのは、人は本来怠け者の保守主義者であり、将来の困難や近くの醜悪から目を背けたいからである。

この種のドラマにおける善玉と悪玉は、対立しているように見えるが、実は裏で結ばれている。同様に、現実の世界の善玉と悪玉も裏で結ばれた一つの勢力と考えた方が良い場合が多い。善玉と悪玉を演じる人たちの顔は、同種の顔で造った全く異なる表情のように見える。ドラマが現実なのかドラマの舞台裏が現実なのか、自分は何をこのドラマから得ようとしているのか、良く考えるべきである。

1956年、日本政府は「もはや戦後ではない」というセリフを言い訳に用いて、戦後から脱却出来ない或いは脱却しない道を選択した。(補足1)戦前と同じ薩長土肥の勢力が戦後も日本を支配することになったため、彼ら為政者に(傲慢により)国を滅ぼした戦前を忘れてしまいたいという欲求があったからである。

そのセリフが、経済企画庁が出した経済白書に書き込まれた1956年、「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、“太陽族”が海辺を闊歩した。その小説は読んでいないが、似たような慾望全開&無責任映画の「太陽がいっぱい」は、DVDで見た。何れも、歴史も倫理も深く考えない方が、個人にとっては幸せだという無責任な姿勢を描いている、下らないドラマなのだろう。(補足2)

2)人間の歴史が書ければ、数十万年という長い物語になるだろう。個人はその中の短い一瞬と言っても良い期間を生きるだけである。深層の事実など見ない方が、幸せだという人生の真理を唄ったのが、1976年に発表された井上陽水の「夢の中へ」だろう。人生の目的とか、真理の探求とか、そんな難しい解けない問題を考えるより、短い時間を楽しく過ごす方が良いではないかと誘う。退廃的な人生謳歌の歌のように感じるが、作者独特の皮肉なのかもしれない。よく出来た歌だと感じるのは、真実を見る作詞者の姿を、黒子のように感じるからである。

真理を知る苦労して、”悪”を見出したとしても、今度はそれと戦わなくてはならない。それを倒したとしても、真理を知る姿勢を保てば、新たな悪を見出すことになるだろう。そもそも、善と悪に分類して何になるのか?それは単に、戦いの相手を見つけるためではないのか。自分は戦わないと決めた時、善も悪も消滅するのではないのか、その道が短い人生と限りある能力の人間にとって幸せなのではないのか。

この真理という概念、善悪という概念を、仏教なども利用して巧みに否定するのが、日本の伝統であった。真実も現実も所詮夢の中の話である。その日本の文化とその歴史を、陽水は知っているのだろう。

○露と落ち露と消えにし我が身かな なにわのことも夢のまた夢 (豊臣秀吉の辞世の句)
○世の中は 夢かうつつか うつつとも夢とも知らず ありてなければ(古今和歌集に詠み人知らず)

“悪”が、運悪く(多分何かの間違いで)自分を突然襲うことになったとしても、死の必然を考えれば、隕石の直撃を受けて死ぬのとどこが違うのか。運命として諦めるしかないのだろう。キョロキョロと落ち着きなく周りを見渡すのは、視力自慢になっても、幸せとは言えないだろう。何もかも受け入れる生き方の方が、人生の総決算をすれば、大きいプラスを産むのかもしれない。

そのような考え方の伝統が、日本には広く深く存在する。日本政治が西欧化できない理由だろう。

3)近代社会は、西欧型社会である。その中に流れる思想は、キリスト教的世界観だろう。そこでは、「色即是空」や「夢のまた夢」的な考え方を受け入れる余地は全くない。従って、日本がこの西欧型世界に順応するには、それらを古典の古い本棚にしまい込まなければならない。

つまり、生の本質は戦いであり、戦いに勝利するには、善と悪の峻別が必須である。夢うつつの状態の人は、戦争は絶対悪だというだろう。非武装中立という夢は、確かに心地よい。西欧的視点からは訳の分からないこの後者の勢力が、この国の70%を占める。明治時代、英国からの貸衣装で演じた西欧風日本だったが、失敗した結果の”先祖帰り”だろう。

西欧的考え方を少し学べば、現在の我々の生は、祖先の戦争での勝利の結果として存在することが理解できる筈である。現在の国家も、そのようにして生き残ってきたのである。その歴史を学ぶ責任をこの社会で生きる権利を主張する者全てが持つべきだが、その責任感はほとんど無いのが現状だろう。

ただ、善玉と悪玉を取り違えることが往々にしてあり、その取り違えは仕組まれたものである場合も存在する。その場合、善悪の峻別と戦いの計画は、専門的知識を得た者に任せるしか無い。専門的知識に恵まれなかったグループは滅びることになるだろう。専門的知識のある者をどのようにして選任するのか、それが大きな問題である。

2週間ほど前になるが、TBS ニュースの報道によると:初入閣した柴山昌彦文部科学大臣は就任会見で、戦前の教育で使われた教育勅語について、「アレンジした形で、今の道徳などに使える分野があり、普遍性を持っている部分がある」などと述べた。 https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20181003-00000026-jnn-soci

これは安倍総理が、森友問題などでも分かるように、民族主義的主張をもっていることを表面的に捉えた上での、政治屋的発言だろう。これはまた、野党が批判する口実をワザと与えて、戦後続けてきたパターンで政権構造を維持するためだろう。国民を馬鹿にしているのである。

19世紀末に、長州の下級侍たちが京都の下級貴族と結託して孝明天皇を暗殺し、倒幕後に政権を得たのだが、その勢力が未だに政権を握っているのが日本の現実である。国際的には現時点では安倍総理以外は考えられない昨今だが、その根本構造を破壊しない限り、この国は催眠術にかけられたまま夢から冷めないだろう。(補足3)

先程述べたように、善悪を自民党と野党で分業して演じる安物ドラマが、戦後の日本の姿であった。明治維新と言われる革命は、英国の指導によるものだろうが、戦後の政治は米国の指示によるものである。そのような外国勢力の下で働くのが得意なのが、自民党の怪しげな人たちだろう。

「明治維新という過ち」など、昨今上記のようなモデルを指示する本が多くなった。今のままでは、国民全てがその説を自分の説にするのは遠くないだろう。教育勅語をモディファイして、それを教育に使うのも良いと言うたぐいの発言は、明治以来の勢力の靴を舐める仕草だろう。節操も何もない人物のものである。

補足:

1)戦後の政治体制から全く脱却していないにも関わらず、また、豊かになった経済の実相から一切目を背け、「もはや戦後ではない」とは良く言えたものだ。無知だったと言えば、言い逃れである。無知を装うことほど罪深いことがないのは、犯罪も同様である。

2)「太陽がいっぱい」のラストシーンは印象的である。アラン・ドロン演じる主人公の描くシナリオと、彼の属する現実の進行が、分岐して行く様子、そして浮遊した主人公が現実に落下する瞬間直前で映画は終わる。

3)この文章は安倍総理を批判したものではない。安倍総理と曽祖父の岸信介元総理は評価すべき点が多いと思う。ここでいう克服すべき(排除すべき)根本的構造とは、与野党が対立しているように見せて、同じ政治屋の仲間で政治劇を演じているだけの政治である。

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