2018年10月21日日曜日

憎しみと愛情と文化

人は可塑的であり、その土地の文化により育てられて、人間となる。人の着る布の材料や品質、そしてデザインなどは、その国の文化の一表現であるように、人間の行動には生身の生物としての部分と、それを修飾する着物の部分がある。社会での行動は、その後者の着物の部分であり、その地方、その国によって大きく変化する。

1)サウジアラビア政府によると思われる、同国の政治記者の在トルコ領事館での殺人事件は、事件そのものも異常だが伝えられる殺し方も残酷である。生きたままテーブルの上で切断されたという。https://www.fnn.jp/posts/00403389CX

日本では想像できないこの種の残酷な政治的殺害で思い出すのは、北朝鮮での張成沢などの殺害である。http://news.livedoor.com/article/detail/13662935/ 同じ人間のすることかと思う。しかし、そのような行動とそのパターンは、動物としての人の遺伝子に直接書かれていることではないだろう。

人間は社会的動物であり、それを維持する機能として“相手の立場に立つ”能力を持つ。更に、他の動物よりも想像力があるため、普通は残酷な殺害は好まない。ただ、その想像力や社会的能力は、憎しみという他の動物にない感情とともに存在する。従って、敵対する相手に対する殺害の方法は、他の動物よりも残酷になり得る。(補足1)

殺し方だけではない。例えば、女性の西欧社交界における大胆な服装や、アラブ社会での顔を完全に隠した服装なども、社会の主役であった男性が、古い時代より性欲とどう戦ったかという文化を表している。 西欧では、貴族や騎士道などの文化が創られ、それらは性欲に惑わされることを蔑む文化であり、大胆な服装はそれを反映している。一方、アラブ社会は専制政治の下、そのような文化は育たず、荒れ狂う性欲から女性を庇う方法は、見せないことであるという上からの司令(宗教的司令)が、そのまま女性の服装に反映したと考えられる。(補足2)

つまり、アラブでは専制的な支配が、西欧では貴族による封建的支配が、女性の服装という文化の一側面にあらわれたと見るべきである。(補足3)ただ、どちらも同様に戦っていたことは確かであり、動物としての人を見た場合、アラブの男性の方が性欲に支配され易いと言うことは出来ないだろう。

この西欧の進んだ(sophisticated) 文化は、貴族階級の存在とその社会(貴族階層に生じた社会)が生み出したと思う。独裁国では、文化の担い手は大衆であり、その環境下では今日の科学技術も、それに裏付けされた文化も誕生しない。なぜなら、科学は自然哲学であり、哲学は対話により可能となるからである。(補足4)哲学は開放系であり、そこに多くの人間が関与する手法を取るからである。

同じことを独裁者が考えても、哲学は作れない。創れるのは、宗教である。宗教は哲学とは対照的に閉じた系であり、堕落するのみである。社会主義独裁の国家が堕落するのは、当然の結末である。(補足5)

2)作日の中日新聞朝刊35面に埼玉県で刺された老夫婦の記事が掲載されていた。男性は特にひどく切りつけられ、死亡した。その犯人として逮捕されたのが、孫の中学三年の少年である。同居していたわけではないのだが、老夫婦は同じマンションに住む関係で幼い頃から可愛がっていたという。

何があったか現在のところ十分報道されていないが、気の毒な老夫婦である。それまで、その少年に注いだ愛情の報いが、短絡的な何かへの怒りとそれによる祖父の刺殺だったとは。そのような事件の記事を見るごとに考えるのは、肉親の愛情も水も、上から下に流れるということである。愛情は常に親から子供に注がれる。老人から孫に注がれる。しかし、逆流はしないということである。

親族の愛情は、子供を育てるという生き物の遺伝子が由来だろう。生物には、子が親の面倒をみるという遺伝子はないのである。一方、子が親に対して持つ愛情は、人間の文化による支配がほとんどだろう。つまり、artificial (文化的)な愛情である。人間特有のこの愛は、山を登るような愛である。一方、歌謡曲などで歌われる男女の愛は、ポテンシャルの底に落ちるような愛であり、動物などにも共通している自然(nature)としての愛である。

この人間に特有の愛については、哲学者Erich Frommの「The art of loving」(日本語訳、「愛するということ」)に議論されている。このartはartificial (「人工の」と訳される)の語幹のartと同じであり、artの対義語がnature(自然)であることを知って、初めてartの意味が理解できる。artを芸術と訳するが、その本来の意味を知る人は少ない。日本語訳では、上記表題を直訳できないのは、いうまでもない。

人間特有の文化的愛情は、社会の構造などの変化で大きく変わる。現在の肉親間の関係も、貧しい時代の親子関係などから大きく変わった。その極端な例として、上記事件などを、我々は毎日見ている。

現在と近い将来、高度に発達した資本主義社会と、その中で生じた大衆文化は、どのような人間を育てるのだろうか。そのような視点にたって、教育から今後の政治経済システムまで考える必要があるのではないだろうか。

補足:

1)大昔の日本でも、似たようなことがおこなわれていただろう。ただ、大和朝廷誕生の時の出雲の国譲伝説や、明治の革命時での江戸無血開城など、日本の文化の下では、穏便にことを済まそうとする傾向が強い。それは、同じ土地で生きることを優先した結果であり、仲間意識が残っていたからである。

2)この問題から目をそらしたり、意図的に軽視しては、本質的議論はできない。例えば、プラトンの国家では、ソクラテスに対するケパロスの「老齢になり性欲の衰えとともに、談論の喜びが増してくる」という言葉に始まり、その話が「正義」の議論の口火となっている。

3)紳士は性欲なんかに支配されないという文化が、あのような女性の大胆な服装を作ったのだろう。しかし、その裏の仕掛けや暗黒部分はしっかり存在していた筈である。この問題で非常に興味深いのは、日本の吉原である。そこでの花魁の格の高さは、どのようにして生じ、どのような意味をもっていたのか?

4)独裁国では、結局トップは一人である。文化の担い手は大衆であり、今日の科学技術に裏付けされた文化は誕生しない。なぜなら、科学は自然哲学であり、哲学は貴族階級的な人たちの対話により産み育てられたからである。つまり、哲学は「文化」を開放系にして、そこに多くの知的人間が関与する手法を取るからである。同じことを独裁者が考えても、哲学は作れない。創れるのは、宗教である。宗教は閉じた系であり、堕落するのみである。

5)東アジアに社会主義国家が根強く残るのは、封建時代を持たなかったからだとどこかで見聞きしたことがある。対話つまり議論の習慣の無い文化圏では独裁政治が蔓延りやすい。日本では、議論と口論と喧嘩の区別が今ひとつされていないのが、心配である。日本の議論のない政治の世界は、ほとんどヤクザの世界である。

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