2018年10月7日日曜日

「教科書を疑え」というノーベル賞受賞者の小・中学生に向けた言葉はちょっと変です

ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏のことば「教科書を疑え」が話題になった。読売新聞編集委員室から以下に引用する。

1)科学者をめざす小中学生へ:「一番重要なのは、不思議だな、という心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って本当はどうなんだろうという心を大切にする」「つまり、自分の目で物を見る。そして納得する。そこまで諦めない」 https://twitter.com/y_seniorwriters/status/1046975868940275712/photo/1

またヤフーニュースによると本庶佑氏が10月1日夜、記者会見で受賞の喜びを語った。本庶氏は自らの研究に対する姿勢を問われると、好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性を強調。「(科学誌の)ネイチャーやサイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割」と語り、自分の目で確かめることの大切さを説いた。【BuzzFeed Japan / 吉川慧】https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181001-00010009-bfj-sctch

これらは聞くに値する部分もあるが、適当に聞き流し無視すべきだというのが私の考えである。全国の900万人の小中学生に対して、教科書にかいてあることを信じないことが大事だなんて話すのは、ノーベル賞受賞が決まり気持ちがupsetしているとしか思えない。

真意を受け取られていないというのなら、何度もその後会見があったのだから、その際に打ち消しの発言をされるべきであった。しかし、そのような発言はマスコミには掲載されていない。

2)科学者をめざす小・中学生は、教科書を読み理解することが何よりも大事である。「りんごが地球との引力で、地球に引っ張られて落下することを、ニュートンは”万有引力”という理論で説明しました。」という文章が、理科の教科書にあるだろう。しかし、それを疑って何になる。勉強が遅れて、むしろ科学者への道を閉ざすことになる。

「りんごが落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を発見しました。」という文章になると、「発見とは、真理を見出すこと」と定義すれば、厳密には間違いと言えるかもしれない。科学は、真実を対象にしないからである。しかし、小・中学生ならそのように覚えても良いと思う。(補足1)「万有引力の発見」という言葉が厳密には間違いであるというのは、科学とその社会の本質的部分に関係するが、それは小中学生に、話すべきことではない。

常に新しい説に置き換わるべく、体系を開かれた状態に置くのが科学であり、それが宗教との違いの本質である。

日本の古い言葉に、「型にはまって、型を破る」というのがある。型にはまる段階が、教科書に学ぶ段階であり、型を破る段階は、分野の先端で教科書を疑う段階である。上記本庶佑氏の言葉は、一度も型にはまってもいない小・中学生に、型など無視すべきだと言っているように聞こえる。もちろん、本庶氏の真意はちがうだろう。しかし、そのような「金言」を吐くチャンスをあたえられたのだから、もう少し慎重に話をして欲しかった。

Nature Scienceに掲載の論文の9割は嘘だというのも、馬鹿げた発言である。これらに限らず、一流の雑誌は、科学界全体が真理探究に向けた戦いの記録である。その9割の論文に書かれた自然界についての解釈は、その時点(数年間)では受け入れられなかったとしても、科学の歴史として残る。

「歴史書に石田三成は関ヶ原で負けたことが書かれているが、彼は負けたのでその考え方や作戦なども含め、石田三成など現在では無視して良い存在だと思う」、そのように言うのに似ている。自然科学の例をあげる。ポーリングがDNAの三重螺旋モデルを出したが、最終的にはその説は、ワトソンクリックの二重螺旋モデルに敗れた。しかし、三重螺旋モデルがあったからこそ、そのアンチテーゼ的に二重螺旋モデルが出されたとしたら、ポーリングの説を「嘘だ」として片付けるのは正しい訳はないだろう。

3)応用研究の大変さ:

本庶氏らのPD-1の研究は、オプジーボの開発に繋がり、それが有力ながん治療薬となった。それがなければ、氏のノーベル賞はなかっただろう。おそらく、本庶氏らのその研究に注いだエネルギーの数百倍とか数千倍のエネルギーが優秀な企業研究者らにより注がれた結果、オプジーボは開発されただろう。

原理の発見は、思いつきのレベルから相当のエネルギーを要する場合まで色々存在するが、そのエネルギーは応用研究に比べて大きくはない。ノーベル賞に対する応用研究の寄与の大きさから考えて、その原理的研究にたいする賞賛のみが世界で巻き起こることに、かなりの違和感を感じる場合も多い。(この点では、基礎物理の理論研究などは除外する。)

もう一つわかりやすい例を挙げ、考えてみる。上記薬品などよりも医療の現場ではるかに大きな役割を果たしているMRI(磁気共鳴画像法)という診断方法がある。その原理は勾配磁場を体外からかけて、磁場情報を位置情報に変換するという簡単なものだった。ノーベル賞を受賞したロータバーの最初の実験では、水を入れた小さな二本の毛細管の配置が、NMR(核磁気共鳴)の信号から描かれた。そのNature誌に掲載された小さな種のような発表から、MRIという大樹に育てるにはそれこそ数千倍、或いはそれ以上の優秀な企業研究者の努力が必要だっただろう。

ノーベル賞は、それらの応用研究にほとんど光を与えることはない。現在ではこのような国際賞は政治的な意味が大きく、サイエンスの発展に特別に寄与するものではないと思う。(一部編集:9/7/19:00)

補足:

1)真実を対象にするのは、宗教である。科学は仮説を提唱し、多くの事象がその説で整理できれば法則と呼ばれる。しかし、それはいつでも、もっと一般的な仮説や法則を排除する訳ではない。そのオープンな構造が科学の特徴であり、大きな進歩の理由である。

2 件のコメント:

  1. 小学生に,教科書を疑え,というのはおかしいと私も思います。

    「見回して車と子供の姿無くば横断歩道は赤信号でも渡る」という歌を詠んだ事があります。
    車通りが全くなくても赤信号では止まって待つのはドイツ人で、フランス人は異なるというジョークがある。
    私も時と場合による主義であるが、それでも小学生が近くに居たら,決して信号無視はしません。彼らにはまず,社会の規則を守る事を教えなければならないと思うからである。

    教科書を疑うのはそれから先のことでしょう。

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  2. コメントありがとうございます。ノーベル委員会は神ではないこと、サルトルが何故文学賞を拒否したのか?など、そんなことを想像したこともない受賞者の発言には、一言コメントしたいだけです。

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