2018年12月25日火曜日

社会は常に個人との摩擦を内包した不安定な存在である:介護ヘルパーによる現金窃盗事件再考

この文章を書くに至った動機について:

2016年2月に“とくダネ”で放送された介護ヘルパーによる現金窃盗事件についてのブログに何度かコメントを貰った。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/02/blog-post_11.html それらのコメントでは、介護ヘルパーに対する厳しい意見を頂いたのだが、私の記事の趣旨については必ずしも理解いただいていないという印象を持った。そこで、ここで再度それらのコメントに答えるという意味で、記事を書く。

この種の事件は、全国で数多く生じているものと考えられる。昨日貰ったコメントでも、「カメラがなければ年寄りの被害妄想と思われ信頼されない。認知症になったら身ぐるみ剥がされるリスクもありそうで、自分自身の将来も心配になった。逆に稼ぎたい人間は老人を食い物にも出来る時代かもしれないです。」という文章があった。

私も、既に老人と言われる年齢となり、近い将来介護を受ける可能性もあり他人事ではない。そこで、3年近く前に書いたブログ記事の真意を説明したい。

社会において、故意或いは偶発的なルール違反が一定の割合で発生するのは、社会の本質的性質である。そこで、ルール違反をどの様に罰するのが良いのか?ルール違反を厳罰に処罰すればするほど、住みやすい社会となるだろうか?一定以上の処罰は社会をむしろ不安定にしないか?そもそも、法は何の為に存在するのか?ルール違反を処罰する基準を考える場合、その様な疑問に先ず答えることが重要である。

1)社会の基本的構造:

社会と個人の問題を原点に戻って、そこから考える。我々は動物であり、動物はその生存と繁栄(繁殖)を利己的な存在とすることで維持してきた。(補足1)その一方、その利己的性質を一部返上し、他人同士で協力して社会をつくり、利己的に生きるよりも大きな環境の改善や種としての繁栄を実現した。その過程で出来た社会生活の考え方や様式と方法が、文化であり、文明である。

現在の社会システムは、無数とも言える役割(つまり仕事)を分業し、個人が受け持つことで成立している。そして社会は、それら仕事に要求される知識や能力などを考慮して、給与などの待遇を設定し、個人を適材適所に個人の意思に従って分配する。もし、犯罪がある一定の仕事に集中して生じているとすれば、その社会が設定する仕事の内容とそこにつける個人の待遇などに問題がある可能性が高い。

犯罪多発を理由に、その分野に生きる個人を攻撃排除するのは、その個人の資質に本質的欠陥がある場合に限るべきであり、それは社会の機能維持における最終的手段であるべきである。その社会の暗黙の基本的メカニズムを理解し、社会を運営しなければ、犯罪に会う人と犯罪を犯す人の両方を大量に生み出すことになるだけで、一向に社会の改善は実現しないことになる。そのような不幸な人を生み出すだけの社会は、政治の責任で改善しなければならない。

そこで常に問題になるのが、それぞれの分野における個人の貢献と評価に関する不平等である。社会を運営していく上で常に配慮しなければならないことは、社会はその本質として、個人との間で摩擦を生じるということである。その摩擦が蓄積拡大すれば、社会を破壊するポテンシャルとなる。

つまり、社会は常に個人の動物としての生存欲求を否定する方向の圧力を、法或いはルールで個人に加えていることで、正常に機能している。ある個人に対して、社会つまりその個人以外の全てが、その個人という動物の生存欲求を押さえつける力を常に加えているということである。別の場面では、別の個人がそのような圧力を社会から受けることになる。特定の場面では、ルール違反は厳罰に処するべきだと多くのその他の社会構成員は言うのだが、それは諸刃の剣を振るっていることを知るべきである。

圧力をかけるのは、動物の生存欲求に沿った行動であり、自然且つ簡単だからである。別の場面で、社会から圧力を受ける側となった時、場合によっては土下座して許しを請うこともある。その際、想像力がある人は、自分が嘗て犯罪的振る舞いをした個人を攻め立てたことを思い出すだろう。

そのような場面に遭遇しない人は幸せである。その幸せが、たまたま自分が高待遇で社会に受け入れられているだけかもしれないのである。その個と社会の摩擦の場面を想像する力がなければ、社会を維持し発展する知恵など生まれない。社会は常に個人による破壊ポテンシャルの発生により不安定に存在するのである。それが、社会と個人の基本的関係である。

2)想像力の欠如は自分で自分の首を締めることに繋がる:

経済的に豊かな人は、老人の介護などには就かないだろう。何故なら、あまりにも待遇が低く、仕事がきついからである。自分と家族の生活を維持するために、本意ではないがその仕事に就き、収入を得て生計を立てているのである。その立場に立つ想像力があれば、監視カメラを着けるのは当然の防御措置だとしても、数千円の窃盗事件で賠償の約束をして土下座する介護人を、警察に引き渡して当然だとは思わない筈である。

多くの犯罪を隠して存在するのが社会、特に日本型社会、である。それは、犯罪と処罰が不均衡であるという面を、そして敢えて犯罪者を生み出さなくても良いケースも多くあることを、昔の人は直感的に知っていたからである。人間には想像力があり、その程度のことは事を荒げる必要などないだろうという知恵も働いていたと思う。(補足2)

勿論、その一方で安易に私的に犯罪的行為をもみ消してしまうのは、社会の改善の機会を無くする危険性がある。現在でも、社会と個人の関わりにおいて本質的に境界線上を歩くことを要請された仕事も存在する。(補足3)その一つが訪問介護の仕事だろう。

前回記事を書いたときに、社会がイェローカードを示し損害賠償で済ませておけば、その人は社会により人生を破壊されないで済んだだろう。また社会もその他の仕事に移すだけで、その人を善良な市民として受け入れることが出来ただろうと感じたのである。

社会のルールは、個人の人生を破壊するために存在するのではない。むしろ、その逆である。多くの境界上(塀の上)を歩むことを要求されている個人を、社会が全て敵にまわせば、社会そのものも破壊されるだろう。レッドカードしか審判が持たないのでは、サッカーの試合が成立しないのと同様、社会も非常に住みにくいだろう。

3)二つの社会:

犯罪の原因を、個人の所為だけにするのも、社会の所為にするも両方とも問題である。それは、本当の犯人を逃してはいけないという意味である。日本のルールは、個人を処罰のためだけにあるのではなく、社会構成員が互いに協力する体制を維持するためにある。つまり、ルール或いは法が、個人の行動規範としての役割だけを果たす様に、社会を構成する個人全てが努力をする必要がある。

日本文化の下、人々は善意を前提とする社会をつくり、それを維持する努力をしてきた。それは、道徳文化により事前に犯罪を防止する社会である。一方、世界の多くは、特に異文化が共存する社会では、悪意を前提とする社会であり、法により処罰することで犯罪を防止する。

前者、つまり日本の伝統的社会では、一旦犯罪者の烙印を押されると、それが軽微な犯罪によっても、その個人は社会で生きることが非常に困難になる。後者では、社会が正常な機能を保つために犯罪者という犠牲者を必要とするが、この場合は、しかしながら、犯罪者には更生のチャンスがより広く作られているのが普通である。

日本は、西欧型の多民族共存型社会が採用する、社会と個人のあり方を徐々に採用しつつあるように思う。急激な変更には犠牲者が付き物となる。前回の投稿文では、そのような犠牲者の数を出来るだけ減らすべきだと言ったのである。

有効な手段として、一つ明白なのは、待遇改善である。給与面での改善は、必然的にその仕事に対する社会の目に変更を加える。その両方が、その仕事の待遇改善に役立ち、結果として犯罪率を減少させるだろう。更に、介護ロボットの導入が有効な手段である。しかし、決して外国人の受け入れではない。(補足4)異なった文化の下で育った人を大勢いれることは、上記社会と個人の軋轢は社会のあらゆるところに顕在化し、治安悪化に繋がるだろう。

GDPは増加するが、その多くは監視システム等の治安維持システム(セコムの株は上がるだろう)、訴訟に関する後ろ向き経費などとして計上されるだろう。そして、個人は一層貧しく不安な生活を強いられるだろう。入管法の改訂は、現在の政治家の殆どが無能だということを証明している。

補足:

1)それは、例えば戦場という極限状況に人を置けば、その本性が現れることを歴史で学ぶだろう。3年以上前になるが、次に引用の記事を読んで頂きたい。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/blog-post.html

2)昔は2-3世代が同居することが、日本の家庭の基本的形態だった。現在では、1-2世代の同居が基本である。その場合、60代以上の高齢者の知恵が次の世代に円滑に渡されない。所謂世間知らずが世間、つまり社会、を形成することになる。知恵は、社会の建前のみを表面的に教える学校教育では、伝達されない。

3)認知症になった老人と多額の現金が施錠なしの棚に置かれた部屋で、一人で介護する仕事は、恐ろしい仕事である。その他に非常にわかりやすい例は、ピンクトラップが仕掛けられた国の外交官の仕事なども、非常に恐ろしい。そのような“塀の上”を歩まなくても一定以上の報酬を得る人は幸せである。

4)外国人の受け入れは、この善意を伝統とした社会という日本の伝統文化を破壊するだろう。社会は、必然的に西欧型の契約社会と法による処罰で機能を維持する形に変えなくてはならない。

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