2018年12月28日金曜日

死刑執行を報じる毎日新聞の記事及び死刑制度について

昨日2名が死刑執行された。ヤフーニュース欄に掲載された毎日新聞の記事(和田武士の署名がある)は、二人の死刑執行に関連して、“今回の執行で「死刑制度維持」という政府の姿勢が改めて鮮明になった。”と報じた。続いて、国際的に批判が多いと書き、最後に、“政府は単に執行を重ねるだけではなく、制度の存廃にとどまらない幅広い議論を喚起するためにも、情報公開を進めていく必要がある”と結んでいる。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181227-00000077-mai-soci

これは死刑制度に反対する勢力が、その廃止を目論む政治的プロパガンダとして書いた記事だろう。報道機関が少なくともニュースとして流す内容の記事ではない。何故なら、今回の執行は、日本という法治国家において、法に従ってなされただけだからである。死刑制度の是非を議論するのなら、ニュースとしてではなく、今回の死刑執行からは一度離れて、社説或いは論評記事として独立させるべきである。

文章を書き、それを発表することを業務としているからには、その辺りのことは十分知っている筈である。つまり、毎日新聞は一般紙ではなく、何かを目論む一派の機関紙的存在のように思える。購読は、それを承知の上ですべきである。

1)死刑制度について: 死刑制度の是非が議論されて久しいが、内閣府の調査によると、世論の80%は死刑を容認している。従って、それを法的な問題として深刻に議論するとしたら、それは専門家だけだろう。https://www.nippon.com/ja/features/h00101/ 

日本では、今回の死刑執行を国内問題として批判する根拠は全く無い。執行の命令書への署名は、山下法務大臣が本来の業務をこなしたに過ぎない。ただし、外交問題(つまり政治問題)の一つとしては、後で述べるように議論の余地はあると思う。

ここでは、裾野を広くとって一市民の立場から死刑制度を考えてみたので、以下にそれを書く。先ず、(素人の浅はかな知恵と言われるかもしれないが)ウィキペディアで死刑制度の議論を見てみた。そこには、社会契約説、人権、誤判の可能性、犯罪被害者への配慮、死刑の犯罪抑止効果、世界の趨勢、社会が負担するコストなどの側面から死刑制度の是非についての議論が整理されている。その項目を以下利用する。(捕捉1)

この中で、一番の問題は誤判の可能性である。従って、その犯罪と裁判に関する情報の公開は死刑制度を維持する上での必須要件だろう。更に、その情報を一般民が理解する時間的余裕を、結審更に執行までに置き、疑義があるとの主張があれば、それを裁判所或いは行政府は吸い上げる制度を作るべきだと思う。その情報公開は、一審終了後になされるべきだと思う。裁判権も本来、一般市民の権利に由来する筈だからである。誤判の疑いが無いと仮定して以下議論を続ける。

上記議論すべき諸要素の内、犯罪被害者への配慮と死刑の犯罪抑止効果についての深い議論は不要だと思う。犯罪被害者として残されているのは、被害者家族だろう。被害者家族については、経済的困難が生じれば、それに対する保障を社会福祉の観点からすべきである。被害者家族の報復欲求は当然存在するが、社会が法的処罰をする以上それは許されない。

犯罪抑止効果は、今後の同一犯人による類似犯を防止するという意味では、終身刑を制定することの議論と同じである。しかし、最後に議論するように、死刑が犯罪人の社会からの排除であるとすれば、排除した者を経費を掛けて長期隔離する必要はない。また、その抑止効果が、当事者以外の同種犯罪を抑止するという意味なら、それは死刑制度の副次的効果である。死刑制度を、「社会と個人の関係」の一つである「犯罪と処罰の関係」として根本的に議論する際、主なる目的について結論を導き出すのが先ず大事だと思う。

やっかいなのは、「世界の趨勢」であり、それに伴う国際的圧力である。国際的圧力には、「世界の中の日本」が短期的及び長期的に考えて、利益を損なわないように配慮すべきである。(補足2)

2)最後に残ったのは、社会契約説及び人権との関係での死刑制度の議論である。一言で私の考えを言えば、「一般の善良なる市民を自己の利益のみを優先して殺害した者は、社会に参加しその恩恵を受けて生きるという生来の権利を放棄した」とみなせる。社会の外にあるヒトは、動物としてのヒトに過ぎず、当然人権など存在しない。

その社会に属することを拒否したヒトは、社会から最も明白な形で排除されるのは自然である。死刑が相当とされるような例えば無差別殺人等は、国家と国家の戦争や、政治的テロリズムと似ている。現在の国家体制の下にある社会を、基点に内外の差があっても、否定するという点でこれらは全て同じである。つまり、テロに銃撃で応じることと、無差別殺人犯を死刑にすることは同等である。(補足3)

死刑廃止を人権問題として取り上げることは、上記考えを採用すれば不思議なことであると言わざるを得ない。「人権を放棄した者を排除する機能を社会が持つことは、人権問題である」という不思議な主張となるからである。この人権を背景にした死刑廃止論の発生理由と経緯が私にはさっぱりわからない。(捕捉4)それは単に残忍な光景を想像することで、気分が悪くなるというナイーブな人たちの主張ではないだろう。

一つの仮説は、それは高度に計画された国際的な政治的企みだという考えである。それは、民主主義という理想論と同時に、世界をコントロールするために出されたものだろう。

民主主義は先進国の看板にするには相応しいが、それを全面的に採用すれば国家がまともには機能しないことは明白である。(捕捉5)まともに運営されている国家では、現実的に国家を運営する制度が別に作られている。日本では米国追従路線とそれをよしとする官僚制度であり、米国では多くのシンクタンクと政治的に活動する報道機関などによる世論誘導、更に、間接民主制による国家元首の選任であると思う。

日本政治に迷走があるとすれば、安倍内閣による官僚独裁の廃止への動き(補足6)が原因であるし、米国政治に迷走があるとすれば、一般市民の考えでトランプ大統領を選任したことが原因だろう。

範囲外への人権思想の適用(誤用)、わざと諸外国政府に統治能力の低下を画策するための剣として使われているに過ぎない。統治能力を欠く様に民主政治を押し付けたアラブの春のケースと同様、強国による思想撹乱である。そのように私は、一市民として考える。 補足:

1)ウィキペディアには死刑容認論として、社会契約説を最初に確立したトマス・ホッブズ、ジョン・ロックやカントなどの啓蒙思想家の考え、「三大人権(自然権)である生命権と自由権と財産権の社会契約の違反(自然権の侵害)に相対する懲罰・応報として死刑・懲役・罰金を提示している。死刑は殺人に対する社会契約説の合理的な帰結である」を記している。私はこの意見に概ね賛成である。ただ、「懲罰・広報として」という部分には反対である。社会との契約を破棄したもの対して、社会内の権威が懲罰を加える必要はない。懲罰は社会復帰可能な者のみに対する教育的行為だからである。死刑は、社会からの排除であり二度と社会復帰はありえないからである。つまり、人を襲った熊にたいする駆除と同様の行為である。

2)それは、捕鯨の問題と同じであり、世界が仮に非常にいい加減な分析の下であっても、強力に政治圧力をかけてくれば、それに沿う判断が必要となる場合もある。それは戦争を含んだ外交の問題である。日本にまともな軍備が無い以上、世界とまともには外交できない。米国のような軍事力があれば、IWCなどからは当然脱退すべきであり、日本古来の捕鯨文化があるとすれば、それを守るべきである。

3)テロリストを捕捉すれば、死刑廃止の国では死刑にしないかもしれない。その一方で、国家(を操っている者たちの)体制に有害と見なした者は、裁判などせずに暗殺している。つまり、人権を持ち出して死刑廃止を主張している人たちは、政治的企みで行っているに過ぎない。そのように明言できるのは、トランプ大統領もケネディー元大統領暗殺事件の資料公開をしなかったからである。この件、議論されないのは、強い圧力で封殺したからだろう。

4)捕捉1にウィキペディアの社会契約説を唱えた大家たちの議論を紹介した。このような議論があるにも関わらず、社会契約を放棄したものの人権をも守るべきだという思想を流布するのは、大きな政治的企みだからである。

5)民主政治の先進国である英国で、国民投票という民主的な政治手段を採用した後、国家が迷走をはじめた。国民投票で決定したように、EUからの脱退が未だになされていない。国民投票をやりなおすべきだという議論まで出る始末である。大衆迎合主義と民主主義の区別は、一般につけられないのだが、失敗したケースをラベルする目的で大衆迎合主義(ポピュリズム)という印字が大事に保存されている。

6)内閣に人事局を設け、官僚の人事を各省庁の事務次官から取り上げて、内閣の下に置いた。それは、内閣の暴走を可能とする危ない組織改編である。

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