2019年6月18日火曜日

言葉の進化論(1):言葉は動物的な掛け声から社会の発展とともに文章を成す形に進化した(仮説)

1)最初人は、大家族的な群れを形成していただろう。そして、その群れが地縁の人たちをも含めて拡大する中で、ヒトの発声内容は家族間の単なる掛け声から、文章の形に変化しただろう。文章を発声して初めて、言葉の誕生と言える。構成員間の協力をよりトラブルの少ない、現在だけでなく将来も想定した、役柄を個体間に割り振った形でするには、文章無くしては不可能である。

文章は、主語と述語という成分を持つ。そこに副詞句などがあって初めて、上記時空に広がりを持つ集団としての機能発現が可能となる。この社会形成と言える人間の集団化に伴い、個体の識別(主語や目的語)や時空等を表す副詞句的な部分を持つ文章を使うようになる段階で、言葉の誕生とみなしうると思う。

その後社会は、血縁・地縁で結ばれていない人たちも含め、構成員の数を増やすことになる。社会維持と管理は細分化精緻化され、徐々に複雑になる。そのような社会では、構成員間のトラブルの解決や、今後の集団の方向を正しく議論するために、より進んだ言葉が必要になる。

  公平な利害調整は、一般に難しい。しかし、それに失敗すれば社会は崩壊する。社会の拡大に伴って、ただ同じ社会に所属するという意識だけを共有する(あかの他人的な)関係が構成員間に多くなるので、言葉は論理的で客観的な会話、対話、記録、公示などに用いる道具に発展する筈である。

その段階で、言葉はおおやけ(公)、権利義務、善悪などかなり高級な概念と厳密な論理が、導入され、用いられるように進化するだろう。

このように社会の変化に伴って、言葉が進化する。逆に、言葉の進化により社会を大きく多機能に、且つ、強くできるだろう。このモデルは、社会(民族)と言葉の双生モデルとか、社会進化論的言語学とでも名付けることができるだろう。この段階の言葉と社会の進化は、ラマルク説的進化と呼べるかもしれない。

2)上記段階で、社会の形態が群れと言うレベルから小さな民族と呼ばれるレベルの集団に成長したと考える。それら民族が生き残りをかけて、他の民族と戦うことの連続が古代であった。生き残る民族は、緻密な言語体系を持ち、それを用いた戦略と機能的な軍事組織を作り得た民族だろう。その民族間の生存競争が、言葉の進化に重要な役割を果たしたと思う。これは生物におけるダーウイン的な適者生存による進化に相当する。

ただ、言葉と社会(あるいは民族)の進化は、生物の個体進化と違って、民族の征服・融合でも起こる。更に穏やかな、民族間の交流による進化もあっただろう。これら全てを引っ括めて、ダーウイン的進化と以下呼ぶ。(補足1)

英語などの西欧語が、日本語などに比較して優れた情報伝達機能を持っているのは、その民族間の交流と生存競争による言葉のダーウイン的進化を多く、そして地理的人口的に広い範囲で経ているからだと思う。

一方、日本語の場合は感覚的な言葉が多く、論理を取り込む言葉の発展が不十分である。それは、ダーウイン的な進化があまり起こらなかったからであると思う。

3)手元に2004年の雑誌「科学(岩波書店)」の7月号がある。「言語の起源」の特集号である。そこに、言語の起源がいろいろ議論されているが、ほとんどが未だ雲をつかむような話である。今後、少し勉強していきたいが、この雑誌のなかには大したヒントはないと思う。(補足2)

人間の進化も、言語と文化(社会)の進化と不可分だと思う。その人間と文化(文明)の相互進化は、人間の社会に対する家畜化という形で理解できる。(2015年3月12日のブログ記事:「文明により改造、家畜化される人間」https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html

文明進化が社会(文化)の進化をもたらしたのだから、人間の生物としての進化、言語の進化、社会の進化の3つは、不可分だと考えられる。

今日はこのあたりで記事を閉めようと思う。次回にはボロアミ的な上記議論の修繕をして、もうすこし考え方を精緻なものにしたい。

以上は、言語学の素人が自分の考えを整理するためにかいたものです。批判等歓迎します。(6/18/6:00am;編集16:00)

補足:

1)言葉と社会の進化を2段階(ラマルク的なものとダーウイン的なもの)に分けたのは、話をわかりやすくするためである。両方のタイプの進化は最初から共存するが、その寄与の比率が発展段階によって異なると考えられる。

2)この科学の特集号では、文章中に寄稿者の「自分の専門ではないが」と言うセリフが多く現れる。それだけ、この分野が未発達なのだろう。ちょっと読んだところでは、それらは社会(文化)と言葉の進化を、其々別に考えているので、根本的なところで筆者の上記考えと異なる。

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