2019年6月28日金曜日

「持続的鎮静」は法的議論を経ぬままに拡大加速化されるだろう

1)言葉は、人と人の間のコミュニケーションや議論の道具として、使われるべきである。しかし日本では、「言葉」を道具としてではなく、神のお告げの如く受け取る傾向がある。日本で言葉を軽々しく使うと、職場を首になったり、社会で非難轟々となる危険性がある。

例えば、70年前占領軍は日本に極めて特殊な憲法を押し付けたが、それを独立後も70年間拝み続けた。それは、政治家が無能だったという理由だけでは説明できないだろう。明治憲法も同程度の期間、一度も改訂できなかったのだから。(補足1)

「持続的深い鎮静」という不思議な言い回し表現を理解するには、日本の特殊な言語空間に関する本質的解説が無くてはならない。脱線気味だが、それが以上のようなことを書いた理由である。端的に言えば、このような表現を用いるのには、何かを隠す目的が存在するのである。(最後の文だけでは理解してもらえないと思ったのである。)

議論をもとに戻す。先に引用した小笠原内科院長はこう語っている。「この持続的深い鎮静は、病院や緩和ケア病棟、在宅医療を行う一部の診療所においては、かなりの頻度で実施されているところもあると聞きます。」http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1376

一昨日の記事に書いたように、「持続的深い鎮静」は仮に患者の了解を得ているとしても、医師が毒液注入の栓を開く限り嘱託殺人である。患者の了解を得ることができなければ、殺人である。確実に鎮静ののち死に至ると、小笠原院長が書いていることから明らかである。

そして、医者には「それはあくまでも鎮静という治療行為である」との抗弁が用意されているだろう。そして、それを行政から司法まで、日本という国は擁護するだろう。しかし、例えば致死量のバルビツール酸を他人に飲ませば、飲ませた人は殺人罪で逮捕される。仮に、深い眠りと死の間に相当の時間差があるので殺人ではない、と言っても通らないだろう。確実に鎮静(眠り)ののち死に至るからである。

そのホスピスでの殺人行為は、西欧的論理では法的根拠を得ることなく、医療の現場で行われている。論理的でない日本語と日本文化の特徴を悪用して、根拠もなく拡大解釈する例は、既に日本国憲法と自衛隊と称する世界で有数の軍隊との関係を見れば明らかである。(補足2)「持続的深い鎮静」という言葉を見た時、私はそれらのことを思った。

過去の食料に乏しい時代、棄老という習慣がどこの国にもあっただろう。それを見事に描いた小説が深沢七郎の「楢山節考」である。しかしそれには、食料が十分なく、若者も子供たちも十分に食べることができないという時代背景があった。楢山節考で記述された「楢山参り」は、神との合一という名誉ある死と、その後に続く世代の深い沈黙とで、家族(社会)全体で老人の死を担う習慣である。(補足3)

一方、私が生を得て一定の判断力をもったころには、棄老などという忌まわしいことなど、仮にあったとしても、学者の議論の中にその痕跡が残るのみだった。その頃の習慣では、老人はほとんど在宅看護で最後を迎えた。それは主婦を初め、家族には大きな負担になったことは想像に固くない。しかし、それを人間の務めとして、受け入れる文化があった。

20世紀の最後の30年ほどで、資本主義社会の方向に豊かになった日本では、「老人の死」を病気治療という形で病院に移し、日常から排除した。その結果、外見を見る限り、専門の工場での流れ作業のように老人の死が扱われるようになった。その最後のプロセスがホスピス入院である。形を変えた棄老である。

その現象に慣れた新しい世代の個人は、結局、少子化で報いることになった。都合が良い部分だけでは「個人」となった人達は、自分の人生を第一に考えて「子供を多く育てることは、高学歴社会の現代、経済的負担が大きくなり、自分の人生の幅を狭くするだけである」と、考えるようになった。それは、或いは勘違いだと良いのだが、人類絶滅の一里塚だと私は思う。

2)現在大病院では、患者がベッドに寝たきりになると10日程で追い出され、終末医療専門の病院に運ばれる。ホスピスで働く医師の言葉によれば、患者自身が望んで(ホスピスに)来ることはめったにない。患者は、緊張し、またしょんぼりした様子でホスピスに入院してくるとのことである。そして、家に帰ることなく、ほとんどの人が一ヶ月程で亡くなる。(補足4) https://www.buzzfeed.com/jp/takuyashinjo/dr-burnout

  しかし現在の光景でも、比較的のどかに見える日がくるかもしれない。団塊の世代が死に向かうとき、大病院やホスピス専門の病院は、“治療の回転率”をあげることになるだろう。法治国家とは言い難い我が国では、局所的な強い要請はそのまま”闇”(認められた闇だから、薄明かりというのが正しいだろう)での作業を加速する筈だからである。

そして、「持続的深い鎮静」は、医療ビジネスの商品と見なされるようになれば、回転数を上げるのは当然だろう。大資本が医療法人として名乗りを上げるだろう。現在医療はGDPの約12%を占めるが、それが大きく増加するだろう。

更に気になるのが、年金制度及び健康保険制度との関連である。その破綻が囁かれる現在、健康保険と年金制度の負担にならない様に大医療資本も協力して、一連の緩和ケアのプロセスが見直され、効率化がなされるだろう。政府は「緩和」「鎮静」「治療」という言葉の上にあぐらをかいて、何もしないのが日本の伝統である。

一部で批判が出て、裁判になったとしても、東アジア全体がそうであるように、日本の最高裁も行政の下部組織に過ぎないので、結果は明らかである。(大崎事件の最新要求に対する最高裁の判断を参照)

補足:

1)明治憲法の天皇に関する条項は、天皇を利用した革命戦争の時には、薩長軍の道具として有効に働いた。しかし、その後は憲法と現実の政治のあるべき姿との乖離を正す事ができず、日本国は軍部が暴走する国家となってしまった。未だに、明治憲法は生きているというアホが政治家の中にいる位、言葉に縛られる民族である。http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1376

2)自衛隊という言葉の「自衛」は良い言葉である。従って、「軍隊」という悪い言葉にくっつく筈がないから、自衛隊は軍隊ではない。それが日本の言語空間における感覚である。それに反して、「戦争」という忌むべき言葉は、疑問文であっても否定文であっても、決して口にしてはならない。それが、丸山穂高議員を国会全体で非難した理由である。「持続的深い鎮静」では、「鎮静」という言葉が良い言葉であり、それが語句全体を支配する。言葉が社会を支配するのであり、その言葉が表す「実体」がどうあっても無関係である。慰安婦が売春婦でないのは、「慰安」がつくからである。海外から受け入れる「技能実習生」は、低賃金労働者ではない。何故なら、実習生だからである。これらすべて、言葉が実態に優先する言霊の国の現象である。

3)それを受け入れない老人は、闇の中で深い谷に遺棄される。それを待っているカラスの群れが、その瞬間に大きな羽音をたてて舞い上がる。小説のその場面を思い出すと、未だに肌寒さが伴う。

4)その医師の次の言葉を真剣に聞くべきである。
「一人の患者を最期まで支えるというのは、とてもパワーの必要な仕事です。あらゆる苦痛を薬で治療し、果てない悩みを聞き、家族の不安とやるせない思いを聞き続けます。自分に元々備わっている誠実さと優しさだけでは、この仕事を続けることはできない」

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