2019年7月4日木曜日

(再)丸山圭三郎著「言葉とは何か」を読んで: ソシュールの言語学への入門(再録)

以下は、古い記事から比較的閲覧があったものの再録です。グーグルブログの検索機能が及ばないので、自分で読み返すためにここに再録します。(2013年9月1日投稿)

 人は言葉を話す唯一の動物である。私は、言葉に関する感心は昔から強く、日本語の特徴や成立についても特に感心が高かった。そこで、表題の本(ちくま学芸文庫、2008年)を見つけて早速購入し読んでみた。この本は主に、近代言語学の父と呼ばれるフェルナンド・ド・ソシュール(フランス、1857-1913)の言語学を中心とした近代言語学の入門書である。ソシュール以前の言語学は、 第I期:世界に色んな物や概念の存在は先験的なものであり、それに名前をつけるのが、言語であると考えられていた。その後19世紀になって、第II期: インドの古語、サンスクリットの発見に伴って、言語の歴史と起源を探ったが、結果は惨憺たるものだったということである。ソシュール以降が第III期であり:ソシュールの新しい言語論を出発にして、言葉のあり方とその構造についての考察が主な主題になった。

 ソシュールは言葉の“概念とその具体的な存在形式”を厳密に考察した。そして “人間の持つ普遍的な言語能力、抽象化能力、象徴能力、カテゴリー化能力、及びそれらの行動”をランガージュ(Langage)と呼び、色んな地域(言語共同体)での国語体をラング(Langue)と呼んだ。そしてラングは体系をなしている。ソシュールの意味する体系をなすラングとは、他(の単語)との関係において個(の単語)が意味を持つような相互依存型の体系である。そして言葉の状態とその変遷を、共時態と通時態という概念で解析した。(注1)

 ソシュール言語学で重要な点は、言葉に依存しない概念も事物(もちろん、人間が知覚し把握する事物や概念)もないという考え方である。そして、『言葉の体系は、カオスのような連続体である“世界”に、人間が働きかける活動を通じて産み出され、それと同時にその連続体であった“世界”もその関係が反映されて不連続化し、概念化するという“相互異化活動”が言葉の働きである』(103頁)と要約される。つまり、言葉は既に存在する概念にたいする表現ではなく、言葉は表現であると同時に内容(概念)であるということである。ソシュールは、その表現をシニフィアン、内容(概念)をシニフィエと呼ぶ。両者は言葉のユニットの両面であり、統合的にシーニュと呼ぶ。

 その他、言語の恣意性(つまり日本語では牛はcow, ox, beefも牛という言葉を用いるなど、国語により言語(概念)体系が異なること)、更に、言葉には外示的意味(最大公約数的意味、denotation)と共示的意味(個人的、情況的意味、connotation)があるなどの記述がある。しかし、それらは言語学的には大切であっても、私にはそれほど興味はない。

 私が最も興味があるのは、その言語の発生と人間が言語を習得する過程である。前者に関しては、言語学は既に書いた様にヨハネの福音書のことばを持て余している状態である。つまり、言語学第II期を教訓として言葉の発生に関しては議論出来そうにないとして避けた。私は、最初に書いたヨハネによる福音書の中の「始めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という言葉の定義は、人間の智慧では否定できそうにないと思う。(注2)

ソシュールの言う相互異化過程も、その過程を仮定しただけで、我々はその結果としてのことばしか知らない。(注3)一方、後者は教育学か発達心理学の領域なのかもしれないが、恐らく未開拓領域だろう。それは、私がHP上(注4)にかいた、生物学的ヒトが人間になる過程と定義したものである。(注5)結論として、言語学は言語の発生および習得過程(人類として、そして、一人の人間としての両面での)に何も言えないのなら、未だ萌芽期の段階に留まっていると言えると思う。

注釈:

1)ある一定の時期の言葉の体系(共時態1)と次のある一定の時期の言葉の体系(共時態2)の変化、つまり体系全体としての変化を研究するのが通時的研究ということになる。その変遷のあり方を通時態というのだろう。この第5節(82-89頁)の最後に突然、共時態と通時態という言葉があらわれたので、それを用いて、自分でこの節の解釈を要約してみました。

2)あるネット記事(http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/99s1/saussure.html)には「諸言語の起源の問題は一般に認められているような重要性をもたない。そんなものは、存在すらしないのだから」(『一般言語学講義』)と書かれている。言語学を理解していないのだろう。しかし、丸山圭三郎のこの「言語とは何か」には、「この問題(言語の起源)の重要性を否定したからではありません。逆に、言語の起源を探ることが、あまりにも大きな問題であるだけに、言葉そのものの本質を究明したあとでない限り下がつけられないという、方法論上の反省に基づくものでした」(48頁)と書かれている。

3)もちろん、国によって概念の区切りがことなるという、言語の恣意性はその異化過程の結果だろうとは考えることは一つのモデルとして可能である。

4)私は福音書の文章についての感想及び日本語と英語の比較について、HPにアップロードしている。

5)これについては、HPの上記文章で、幼少期に母親とその周囲から獲得する言葉によりヒトは人間に生まれ変わると書いた。
= 2014/6/18pm; 6/19am, edited;=

0 件のコメント:

コメントを投稿