2019年7月3日水曜日

(再)ワイルド・スワンズ(Wild Swans)の感想;古い中国と毛沢東の圧政について

以下は、古い記事から比較的多く閲覧があったものの再録です。グーグルブログの検索機能が及ばないので、自分で読み返すためにここに再録します。(2013年10月27日投稿)

 ワイルド・スワンはユン・チャン(張戒;Jung Chang)が著した、19世紀後半から20世紀の中国で生きた3代、祖母、母、著者の記録(ドキュメンタリー)である。親族や公人については本名で書かれている。(注1)祖母は纏足をしており、古い中国の大家族制の社会で生きた。(注2)母は中華人民共和国の成立過程の中で成人し、やがて共産党員になった。父は、党の高級幹部になったが、やがて毛沢東の圧政に押しつぶされることになる。著者は、そのような家族の中で生まれ育った。

文化大革命の初期に、一時紅衛兵になったものの、その後“造反組”による父母に加えられた、意図的誤解に基づく根拠の無い残忍な仕打ちや、既存社会の価値の破壊は、毛沢東の革命の名を冠した欺瞞的運動によると気付くことになる。そして、毛沢東の死後、ロンドンに脱出する。この本は、人類の歴史の中で培った文化という上皮を捲れば、人間は獣よりも醜い存在となり得ることを教えてくれる。(注3)

毛沢東は、国民党との戦いを指揮して勝ち、中華人民共和国を1949年に設立した。その後、農産物や鉄の増産を杜撰な計画により国民に命令した大躍進運動で数千万人の餓死者を出すという大失政を行なう。その結果、政権中枢での力が一旦失われる。その後、ソ連のフルシチョフにより批判されたスターリンが、歴史の中で負の評価とともに残ることになったのを見て、文化大革命という壮絶な権力奪回の闘争を計画実行した。

国民の中に残っている、中華人民共和国創立の英雄としての尊敬の念を利用し、“新しい体制の確立には、古い価値を全て否定する必要がある”という言葉で総括出来る、多くのスローガンを立てた。(注4)そして、最終的に劉少奇や鄧小平などを古い価値の中に含ませることで、権力を奪回しようとしたのである。しかし、毛沢東は巧みに貧しい時代の中国大衆の不満に由来する膨大なエネルギーを利用したため、破壊すべき古い価値の中に現政権の組織とその中で地位を得ている優秀なる幹部らだけでなく、人類が長い間に築いた文化や学問、多くの知識人に加えて中堅幹部から中学校レベルの優秀な先生までが含まれることになった。

そして走資派と看做された攻撃の対象は、批闘大会と呼ばれる吊るし上げに呼び出され、大衆の不満と怨念とによる復讐の対象となった。結果として、広範なレベルで中国国民、文化的施設や財産、それらの組織に、多大の犠牲を出すこととなった。それは、自分以外の全ての範囲に膨大な犠牲者を出してもかまわないという、極めて利己的な計画であった。

著者の両親も、特に優秀なる共産党の幹部であったが故に、塗炭の苦しみの中に放り込まれることになった。多くの悲惨なる挿話は、読者に人の醜さを嫌という程反芻させる。毛沢東が創った中国は、人民共和国とは言いながら皇帝毛沢東の独裁国家であり、人と人の信用や社会の信用を一挙に破壊するものであり、その回復は現在も尚なされていないことを著者は示している。

人は他人である人との間にも、信用を築くことで社会を構成し、生き延びてきた。しかし、この人と人の間の親和性による社会の信用は、生きる為のあらゆる作業の能率を協力によって向上させることを駆動力として築かれるので、非常に不均一である。我々が現在理想とする社会は、その信用が人と人との親和性から、「法と正義」により構築される社会である。(注5)法と正義による人と人の協力関係は、空気のように均質で解放的な信頼性の高い社会に必須である。中国でも他の東アジア諸国でも、法と正義による国家形成の考え方は西欧から輸入されているが、未だに十分な形にはなっていないと思う。(注6)
 
注釈

1) この感想文は、ワイルド・スワンに書かれた内容を事実と捉えて書いたものです。

2) 纏足や大家族性(数代に亘る家族や妾とその子らの同居)は、極端な男女差別により可能になった。

3) 他の動物の生態を見ても、自然の中で生きる厳しさを感じるが、ルールとは言えないが、型にはまった生き方をしており、あまり汚さを感じない。人は知恵を持つ動物であり、欺瞞と暴力を巧妙に用いた手段で有利に生きる姿は、他の人(或は神)から見て、汚いと映る。

4) 古い価値とは、「古い時代の優秀なるもの」ということになる。そして当時の劉少奇や鄧小平の、大躍進運動で疲弊した中国経済の立て直し政策の中心となった政権を、古い時代のものとすることで、彼ら指導者を失脚させるのである。

5) 経済構造の変化により、古代には既に貴族と農民などの身分社会が出来ていた。西欧では、その貴族の間に法と正義という概念が産まれたのは、おそらく人が神と直接つながる一神教の役割が大きいのではないだろうか。つまり、ユダヤーキリスト教では、神(聖書)以外にオリジナルな権威を認めないのである。そして、善良なる人は全て、神の下に平等(経済的や知的には平等ではないが)であるという考えが、「法と正義による社会」の誕生に必須であったのではないだろうか。

6) 文化大革命の時代には、毛沢東の写真が掲載された新聞紙は、包装紙として利用できないだけでなく焼却さえも出来なかった。現代でも、韓国の裁判所は対馬の寺からの盗品を国内に保持して返却しなくて良いとの判断をしている。日本では、一票の格差は2倍以下なら、憲法に違反しないという判断を最高裁はして来た。最近では、国家公安委員長が、制限時速60kmの表示があっても、流れに乗れば70km/hで走っても良いという発言をしている。東アジア全体が、或は儒教圏と言っても良いが、人治国家(法治国家といいながら)の伝統から完全に抜けきれていないのである。

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