2019年10月9日水曜日

愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」に対する意見(再考)

あいちトリエンナーレが再開され、表現の不自由展で平和の像(以下、慰安婦像)や、昭和天皇の肖像画を燃やしたりする展示物が、再度公開されている。この件についての議論がプロデューサーである津田大介氏の出演で、今朝の「グッとラック」というモーニングショーでも放映されていた。

この件、既に二度ほどブログ記事にした。そして、それら展示は政治的プロパガンダであり、現政府やその下の地方自治体が支援するのはおかしいと結論した。今回は、もう少しその主張と根拠を明確にしたい。

津田氏は、自分たちが気に入らないからというだけの理由で、芸術祭を支援しないという姿勢は、その問題を考える機会すら奪い去ることになり、好ましいことではないと発言した。津田氏の一般論における論理は正しいと思うが、上記特定の展示物に対する具体的な議論が欠けていた。

津田氏も認めているように、何が芸術で何処までが芸術かという問題は、人により情況によりことなり、微妙であり結論を出すのは困難である。そこで、今回の展示の議論は、芸術かどうかの議論は保留して以下話を進めたい。というより、作品の芸術性には無関係である。

芸術は、感覚や感情に訴えるものであり、論理的思考を進めるものではない。従って、歴史に関する分析とか、政治に対する議論を重要な問題として行っているとき、そして、その作品(芸術性のある無しとは無関係に)が呼び起こす感情や感覚が強くその政治や歴史に抵触する場合、それらの展示は慎むべきであり、政府は協力すべきではない。それは国民を愚弄する行為であり、政治的プロパガンダだからである。

勿論、その時代を生きた人の感覚で、それらを表現できれば、写真や芸術作品もそれらの議論の助けにはなるかもしれないが、一般に、それらの作品は、論理的思考を妨害し、立場の異なる人々による冷静に議論の場と姿勢を破壊する可能性が高い。

繰り返しになるが、表現の不自由展で展示されているものは、特に、慰安婦像や昭和天皇の肖像写真を燃やすような展示物は、異国が用いている政治的プロパガンダの現役の道具であり、現在の日本政府や愛知県がその展示を支援すべきではない。

この点は、前回の根拠として明確な形で触れなかったかもしれない。要するに、上記結論は芸術かどうかの問題とは全く別である。つまり、仮にあの“平和の像”が芸術であっても、それが75年後の感覚で作られている以上、慰安婦制度やその歴史の中での意味を抽出する材料にはならない。

歴史上のある出来事の検証と評価は、その時代背景とその土地及び風俗などを前提に行われなければならない。慰安婦という75年前の「仕事」の意味は、既にソウル大学の教授により、議論されている。(2019-10-04 の記事参照)
慰安婦の実像と虚像ーソウル大李栄薫氏の講義の感想https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12532361574.html

別の表元で繰り返す。「平和の像」つまり慰安婦像は、75年以上前の出来事を、韓国の現在の政治的プロパガンダの為に、現代の韓国の基準で敢えて評価し表現したものであり、国家に求心力をもたらす為に反日感情を扇情するためのものである。歴史的検証の意味は皆無である。

また、表現の自由は、公共の福祉に反しない範囲で主張しなければならない。従って、昭和天皇の肖像を焼く場面を含むような展示物は、日本においては表現の自由を主張する資格はない。天皇制に賛成とか反対とかのいろんな意見はあるだろうが、それは将来の議論すべき問題であっても、現在一部の人たちの感情や感覚を表現し宣伝するのは、日本における公共の福祉に反する行為である。

立川シラク師匠が上記番組の中で用いた例え話だが、親の過去の悪い点醜い点を単に表現し展示する行為は、その一家を誹謗することになり、単なる敵対行為である。それが、コミュニティー全体の改善など相応しい場所と時間において議論される場合には、子供も辛抱し受け入れねばならないだろうが。

単なる敵対行為に対して、反撃するのは当然のことである。昭和天皇の肖像を焼いたり、破ったりする展示物は、正に、この比喩のとおりである。

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