2019年11月21日木曜日

日本社会はイジメの社会:日本郵政のノルマと学校内でのイジメ

1)職場での上司による「パワハラ」が屡々報道されている。例えば、郵便局では、年賀はがきを売る人にノルマを課し、その達成をパワハラ的に上司が要求するようだ。その達成が容易でないために悩んだ挙げ句に自殺した人がかなり居る。下のサイトのケースもその一つである。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191118-00010000-nishinp-soci

この職員が一般採用で入社したのなら、労働協約に年賀状売上枚数などの定めなど無かっただろうから、ノルマという形で販売目標が提示されたとすれば違法である。ここでノルマとは、達成できないなら、何らかの処罰があることを前提に提示された労働成果の数値目標である。

ノルマという言葉は、第二次大戦後、シベリアに抑留されていた人たちが帰国した際に日本に広まったという。個人の自由と人権の確保を、最重要と考える現行憲法の下の日本に、このような不正が今でも存在するのは非常に腹立たしい。国会の野党議員は一体なにをしているのか。

このケースでは、おそらく上司は“努力目標”と喋っているだろう。しかし記事によれば、人権侵害の可能性のある“処罰”が上司により下されていた。「お立ち台」と呼ばれる台に上がり、数百人の前で謝罪させられるのである。 以下この問題を掲載した記事から引用する。

毎年、年賀はがき7千~8千枚の販売ノルマが課せられた。金券ショップに転売する同僚もいたが、転売は禁止されており、真面目な夫は「俺にはできない」。自宅には、自腹で購入した年賀はがきが山積みになっていた。歳暮や中元、母の日…。歳事のたびにゆうパック商品も購入。夫は「時間内に配達するので精いっぱい。営業なんかできるわけがない」とこぼした。

この方は、うつ状態になり、最後は勤務局の4階から飛び降り自殺した。9年前の出来事である。その後、配偶者の方は、職場からこのような被害者を無くするよう訴える集会に出席するなどの活動をされているようだ。上記記事全文を読むと、腹立たしさと悲しさで胸が詰まるほどである。

2)このケースでは、実質的に上司による部下からの給与の剥奪である。それを非常に陰湿な方法、つまり、不可能な販売ノルマを課し、達成出来なかった分を自分で購入するように仕向けるという方法で行っているのである。

上記記事が中心的に取り上げたのは9年前の事件だが、2年前にも同様の理由で自殺者が出たと書かれている。つまり、このような事が、今でも多くの郵便局で行われているのだろう。現に、最近話題になっているかんぽ生命(日本郵政の一角)での不祥事も、その延長上の出来事である。(補足1)元日本政府の中にあった企業体で、このような方法が採られていることは、日本全体の問題、文化の問題であることを示している。

この目標設定をして業績を伸ばす方法の日本での起源は、実はソ連のノルマではなく、米国のピーター・ドラッガーの本で紹介された目標管理制度(Management by objective; MBO)という経営手法のようである。

ドラッガーの方法では、上司と部下が話し合いを通して、担当する仕事の目標を具体的に設定することで、その部下の仕事と会社の目標とをリンクさせる。そのプロセスを意識させ、労働意欲を高めることがMBOの目的であると解説されている。https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=24

仕事を神が与えた罰であると考える傾向にある欧米人(補足2)に対して、会社の目標と個人の目標を具体的にリンクさせることで、自分の労働の意味の理解と労働意欲の向上を喚起させるのである。その思想(手法)を、仕事を人生の中心に置く日本人に応用するのなら、単に会社の目標と自分の仕事をリンクさせる話し合いで十分であり、数値目標は参考程度で十分だろう。

日本におけるMBOの猿真似は、経営者のエゴイズムと重なり、ソ連のノルマに変身したのだろう。会社にとってはむしろマイナス作用であることが理解できないのは、経営陣の能力不足であると思う。(補足3)

この会社全体の業績向上を直接会社員全体に押し付ける方法は、後で述べるように、日本の会社が共同体的であることを利用している。つまり、日本の労働者の人格は、名刺に書かれた会社の一員であることにほぼ一致するのである。それは、一定時間会社に労働を提供し、その対価を受け取るという西欧の機能社会的会社とはことなる。

日本の大企業経営者は、家族経営の延長上にある小企業の共同体的性格を大企業にまで持ち込むことの是非を、深く考えるべきである。飲み会や花見の会などの社内行事のあり方から、見直すべきである。

そして、社会全体としては、開かれた労働市場の実現により、労働力の流動性を高めることが大事である。つまり、適材適所を如何にして実現するのか、そしてそれら人材が能力を発揮できる環境(主体的に成果を求める環境)をどのように作るか、それをどのように組織全体の力として積み上げるか、を考えて日本の文化の中で実現すべきである。

「言うことは素人でもできるだろうが、本当は非常に困難なのだ」という反論は、MBOの猿真似的なノルマを企業経営に持ち込むことを止めてからにしてもらいたい。

3)パワハラなどのハラースメントが頻発する背景と日本の社会の特徴

ハラースメントの意味は、迷惑行為に近い。ただ、「XXハラ」と呼ばれるものは、被害が繰り返得されることが特徴であり、そして、その背景は単純な犯行よりも広く複雑である場合が多い。従って、暴行や傷害などで加害者の処罰はあり得るが、それは本質的解決ではない。

身体的、心理的な犯罪性では、刑法で罰するレベルではない場合でも、その社会的、文化的な性格のため、被害者にとっては非常に深刻な場合も多い。上記郵便はがきの販売ノルマのケースも、会社ぐるみのことであり、一個人を例えば名誉毀損罪などで裁いたとしても、それだけでは済まされない、社会全体に関係する深刻な問題を含んでいる。

“XXハラ”の一種に分類される「学校でのイジメ」が大きな問題になった時、ブログの記事を書いたが、その時、いじめの定義を以下のように書いている。 「いじめとは、共同体内の特定の構成員を孤立した状態に置いて、心理的圧迫や肉体的暴行を集団で加える行為である。」https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/blog-post_12.html

つまり、通常ハラースメントと呼ばれる犯罪的行為は、共同体内で行なわれるという点が重要である。パワハラなども、一人の上司の特定の小言が怖いわけではない。それが(共同体的性格の濃い)日本型企業の中でのイジメ的な処罰につながるから恐ろしいのである。

上記「お立ち台での謝罪」も、この種の集団での心理的暴行の類である。つまり、数百人の前で謝罪させられるイジメでは、上司だけでなくお立ち台を眺める数百人の従業員は、気が付か無いかもしれないが、イジメの共犯になっているのである。(補足4)

更に視野を大きく採って、日本社会全体を眺めてみると重要なことがわかる。つまり日本の、学校、地域社会、会社など、全ての社会が共同体的性格を濃く持っているのである。その結果、日本全体も一つの大きな共同体となっている。

日本の民族主義者(右翼)は、国は民族共同体で在るべきだと考えるのだろう。しかし、それは全体主義への入り口である。その考えを拒否されたのが、上皇や今上天皇の「象徴としての天皇を追求する姿勢」である。民族共同体的国家を目指す連中に、世界の中の日本を客観的論理的に考えることなど出来る訳がない。(補足5)

日本社会の様々な非効率、不合理、不平等などは、本来機能社会的でなければならない国家、学校、会社などに、共同体的性質を過剰に持ち込んでいるところにあると思う。(22日早朝、編集)

補足:

1)保険の切替時に、保険金の二重取り、或いは、無保険期間が発生していたという事件。ここで、係員は二重取りになるケースを知りながら、その際に新規契約の実績となるので放置していた。https://newswitch.jp/p/19771

2)多くの人がご存知だと思う。欧米人が労働を苦役と考えるのは、旧約聖書の創世記にあるエデンの園での出来事が原点にある。つまり、神の戒めを破ったイブとその夫アダムは、神から罰をうける。アダムに対して神は言われた「あなたは一生、苦しんで地から食物をとる」この話は、新約聖書の有名な「山上の垂訓」の中にも現れる。

3)グローバル化の世界で会社が発展するには、業務における新規な展開とその方法を会社の角層が広い範囲の視野で見出すことである。このような安易な方法で業績上昇を目指すことは、その時間と機会を見逃すことになる。

4)最初の記事の中で、自殺した人配偶者の方の言葉に注目してもらいたい。 “ミスを起こした局員は「お立ち台」と呼ばれる台に上がり、数百人の局員の前で謝罪させられた。「怖い。絶対に上がりたくない」と夫は漏らしていた。”

5)共同体の中では、論理や利害を超える価値を、その共同体のメンバーであることに置く。共同体とは、情の集団である。機能社会とは、現実的利益を重視する社会である。国際社会の中で重要なのは、現実的利益を最重要視する姿勢であるのなら、日本は共同体的社会を重視する傾向にあることを自覚するべきである。

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