2020年1月11日土曜日

旧社会党系政治家は政治的には5歳児レベルなのか?

1月8日のブログ記事にchukaのブログさんからコメントをもらったので、それに対する此方の返信を文章にし、そのブログ記事の補強としたい。コメントの要点は、①伊藤貫さんの主張を意味不明と断じ、更に、外交と外交評論家を”知的レベル(年齢)”で分類することの愚を指摘していること、更に、②米国の外交評論家はバランス・オブ・パワーに依拠して他者を批判しているのを聞いたことがない、の2点である。


1)旧社会党系議員は政治的に5歳児か?


民主党伊藤貫さんが、年齢で日本の政治家を評価したのは、マッカーサーが連合軍司令長官を解任されたあと議会で証言し、日本の政治が12歳レベルだといったことのアナロジーであることを先ず指摘したい。http://www.jice.or.jp/tech/columns/detail/31


そして、その後、年齢での政治家などのラベル付けは、日本では普通の政治文化になったと思う。旧社会党系の政治家が、日本人の為に日本の外交体制のあるべき姿に言及していると仮定した場合、彼らの非武装中立の主張は、まさに5歳レベルである。何故なら、17—18世紀にヨーローパで主権国家体制が生み出され、その延長上に現在の日本及び世界の政治と外交があることを、彼らは無視しているからである。つまり、主権国家の中心には、国家としての権威が、そして、それを裏付ける軍事力が必須であることは常識である。


ただ、8日のブログで私が指摘したのは、かれらが他国の利益のために、日本国の外交を非武装中立に誘導している可能性である。例えば、日本社会党の元委員長の勝間田清一がKGBのスパイだったことなどを考えると、かれら社会党の人たちは、自由主義の日本を破滅に導くべく(成人した政治家として)活動していた可能性が高い。現在テレビで活躍している田嶋陽子氏も、全くのバカなのかも知れないが、日本にとっての敵対勢力の一員と考える方が正しいだろう。


その幼稚を装った“左翼”に注意すべきだという姿勢&視点が、伊藤貫氏に抜けていたのなら、それは批判されるべきだと思うが、そんな筈はないと思う。その視点が欠けているように見えるのは、気のあった仲間である西部邁氏との“おしゃべり”を基に作成した動画だからだろう。https://www.youtube.com/watch?v=w7pe3Ptw_H4(補足1)


次に、上記動画では、自民党主流派と彼らの政治を支持する親米保守の人たち、例えば政治評論家では岡崎久彦氏や田久保忠衛氏らを例にあげ、彼らを10歳児と評価した。彼らも、主権国家体制の必須要件を殆ど無視している点は、旧社会党系の人たちと同様である。ただそれは、戦争に疲弊した日本国民を先ず食べさせることに専心したであろう、戦後直後の政治姿勢としては、一つの現実的な選択だったと思う。


“マッカーサースケール”で成人の域に達した日本のために働く政治家なら、1952年のサンフランシスコ講和条約直後に、主権国家としての体制を形だけでもとる(つまり、憲法改正)筈である。それで自分の政治生命が絶たれるとしても、その時期を正しく把握し実行するのが、政治家という職業的専門家の必須の能力である。そして、それをしなかった吉田茂を、批判しない親米政治家や政治評論家は、そのスケールで10歳と評価されて当然である。


更に、伊藤貫さんが半分くらいは理解できるとした、戦前保守といういわゆる右翼の評論家の方々だが、現在で活躍されている桜井よしこさんらがその範疇にはいるのだが、その人たちは主権国家として必須の軍事力保持を主張している。


ただ、靖国神社から戦争責任者を排除する必要など無いとし、現職総理は参拝すべきだと主張するのは、あの日本の敗戦から何も学ばないことの反映であり、私には看過できない。彼らを“マッカーサースケール”(これも私の命名です)を用いて、15歳としたのは、当然ではないだろうか。


これら右翼的な人たちの中には、自分の私的利益と引き換えに、米国の意図を実現するために働いている人もいるだろう。その方たちは、上記の重要な歴史的ポイントを指摘されると怒り出すので分かるだろう。彼らを10歳や15歳というのは失礼かもしれないが、その代わり売国奴として評価されるべきだと思う。


国家という概念を、WGIP(占領政策のうちの思想改造及び文化破壊の企み)は日本人から奪った。2016年2月に「保育園落ちた、日本死ね」という言葉がネットに投稿され、それが民主党議員による国会質問となった。その時私はブログ記事で、そんな愚痴は放っておくのが筋で、それを真面目くさって取り上げる民主党議員は下劣だと、そして、その質問にオタオタする内閣の劣悪さを、情けないことだと指摘した。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/03/blog-post_14.html


日本はまだ主権国家となっていないのだから、そのような言葉が国民から軽々しく愚痴として出るのは、ある意味止むを得ない。日本政府がしっかりと主権国家としてのあり方を考えて、文部行政を行っていない証拠である。反省すべきは、保育所の不足だけではない。もっと重要なのは、日本国民における国家意識の欠如である。



2)米国政治評論家はバランス・オブ・パワーで外交を語っているか?

 

バランス・オブ・パワー外交というのは、要するにパワーポリティクスのことだと理解する。伊藤貫氏は、バランス・オブ・パワー外交と言い換えたのは、現実の安定した世界では、パワーのバランスが成立しているからだと思う。


あるバランス・オブ・パワーが破壊されて、次のバランス・オブ・パワーに移行する際の乱れた状態が世界大戦である。この考え方の展開において利用されるのが、地政学的見方や国家のライフサイクルを仮定した見方である。(北野幸伯著「クレムリンメソッド」)呼び方はいろいろ在るが、要するに現実主義的外交のことである。


日本の右翼系の人たち、上記戦前保守の人たちは、このようなパワーポリティクスの歴史を、「善悪」という色分けをして考えるという幼稚さを持っている。日本は悪くなかった。悪いのは、日本を戦争に誘ったルーズベルト(フランクリンの方)だというのである。「善悪とは何か」という基本すら理解していないのである。


米国が日本を敵国と想定したのは、オレンジ計画の立案された1920年代だろう。米国が日本を利用して満州権益を得ることに失敗したことと、大きく膨張しつつあった日本を危険視してのことだろう。米国は、ロシア、中国特に蒋介石政府、英国など西欧諸国、を味方に引き込んで、日本を戦争に誘い込んだのは事実である。しかし、そのような争いが数千年の人間の歴史であり、人間の生態そのものであることに、日本の右派の人たちは気が付かないのだろう。


軍事力均衡(バランス・オブ・パワー)を基に、国家の外交を論じるのは、唯一の現実的な外交論である。毛沢東が、中国を訪問した田中角栄に、「日本には、ソ連、米国、ヨーロッパ、中国という敵があると指摘した。」そして、その環境のままでは、日本国の繁栄はありえないので、「中国と組まないか?」と誘いの言葉を投げかけた。(青木直人著、「敵国になり得る国米国」)


日本の敗戦後、日本は吉田茂の米国追従路線により、当時の米国は日本の友好国だと考える人日本人が多かっただろう。天才かどうかは私には分からないが、田中角栄は数少ないまともな政治家のひとりだった。かれも毛沢東も、米国は日本の友好国のように装っているが、その時日本の敵国だったことを正確に見抜いていたのだ。(補足2)


米国の姿勢をそのように導いたのは、日本である。それより7−8年ほど前には、ベトナム戦争を始めた米国は、日本を米国の片腕として使おうと考えた時期があったと思う。それは、日本に核武装を進言した頃である。それを聞いた佐藤栄作首相は、世界の動向とそれに対する米国の考えを全く理解しなかったため、米国の戦略の中で日本に重要なポジションを与えないと決断したという。(片岡鉄哉著「核武装なき改憲は国を滅ぼす」)(補足3)


このように、自分の所属する陣営と、仮想敵対陣営の軍事力の比較で優位に立つことが大事だと考えるのが、バランス・オブ・パワーを考える外交である。米国は世界一の覇権国だが、その地位は、常に第2と第3の繋がりを妨害する戦略をとることで長期維持が可能となる。米国が中国に甘かったのは、ロシアと中国の接近を防止する意味があったのだと思う。キッシンジャーなどは、そのようなパワーポリティクスが中国の要人とは通じると考えたのだろう。


もしトランプが再選されたら、ロシアとの関係を改善する方向に動く筈である。中国は米国と敵対することになった以上、ロシアと友好関係を築き上げて、現状のパワーバランスを維持しようとする筈。中国に利権をたくさん持つ民主党系の人たちや、ロシア嫌いのユダヤ系の人たちは、ロシアとの関係改善に抵抗を感じるだろうが、結局はその方針に従うだろう。


この様な考え方は、ピーター・ナヴァロの「米中もし戦わば」(crouching tiger)」の第29章にかかれていると思う。その最後の部分に、以下のような文章がある。


この様な見地からすれば、ロシアにとってずっとましな長期戦略はアメリカ主導の「バランス連合」に加入することだろう。その方が、ロシアの技術と天然資源を、世界最大の産業基盤と兵力と人口に結びつける中露同盟よりも、ずっと世界の安定と平和的バランスに貢献するだろう。


また、エドワード・ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」の4番目の章のなかに、「対中包囲網」の作り方として、中国を中心とする勢力と米国を中心とする勢力のバランス・オブ・パワーを論じている。非常に印象的な言葉がこの本の最後の方にある。「敵は潜在的な友である。友は潜在的な敵である」(193ページ)である。この言葉は、独立国は其々の事情で動く、それによりパワーバランスも変化し、敵味方が入れ替わる可能性もあり得るということを意味するだろう。


何れにしても、主権国家が国際社会のプレイヤーである。その主権を持たないで、戦後75年間が過ぎた。その責任は、与党自民党にある。それは自民党を構成する政治家とそれを支援する政治評論家が、マッカーサースケールで10歳レベルであり続けた結果だろう。



補足:


1)対談では、その対面した人と話をしているという当たり前の事実を重視する必要がある。それは、論文などのように他の学会メンバーや一般に対する自分の発見や考え方を主張したものとは異なる。ただ、youtubeに乗せる段階で、編集などをして、一般に向けたものにする必要がある。評論を目的とした対談などでは、最初から、一般に向けたメッセージのやり取りで進める場合も多い。


2)1972年2月に訪中したニクソンやキッシンジャーが語った「日米安保条約は日本の軍事力復活を防止するため」という所謂「瓶の蓋論」、そして、周恩来とキッシンジャーの間の「日本には絶対に核武装させない」という密約は、当然毛沢東の頭の中にしっかりと仕舞われています。


3)佐藤栄作は、非核三原則とかいうパワーポリティクスの世界で、自国に手錠を掛けて悦に入っているアホである。日本国民を裏切ったなんて、夢にも思っていないだろう。沖縄返還は、米国の経費と責任で沖縄基地を運営することが負担になったから、施政権の一部を日本に返還しただけのことである。しかも米国は、「サンフランシスコ講和条約に書かれていないので、沖縄返還は無効です」と、あとで中国が言うことを知っていた筈である。

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