2020年8月17日月曜日

現職閣僚があの戦争を総括する義務を果たさないで靖国参拝するのは責任放棄である

これまで何度も靖国参拝を論じてきた。最近のものでは、今年1月2日に書いている。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12563990644.html

特に意見が変わったわけではないが、この時期に再度意見を示しておくのはブログを書くものの責任のように思うので、新たな短い文章を示す。

 

1)日本政府の戦争責任を明確にすべき

 

政府は日本国民に何故あれだけ多くの戦死者を出したのかを説明する責任がある。それを戦後75年間避けてきた。政府要人が靖国に参拝するのは、その責任放棄のように私には映る。つまり、「国を守ること=戦死すること」では無いはずだ。

 

この季節、現職国会議員を含めて全ての国民は靖国参拝すべきであるという話が大きくなる。それを聞くと、麻生さんのような貴族たちが、「お前たち下々は政治を考えるよりも、命を捧げることで国に貢献すべきだ」と大声で要求されているような気がする。

 

明治時代から現在まで連続的に繋がる日本政府は、75年前まで、勝手に作った国家神道を利用し、戦死者を神に祀り上げることで、安価に兵士の命を消費した。今になれば多少とも知的な人間は、冷静に考えられるだろう。戦死したからと言って、神になれる筈はないと。

 

同じ現世を生きる人間のくせに、「死んだ場合は神にしてあげる」と言って、一般国民の若い男子の命を無駄に使った可能性が高いのだ。予算の使いみちでも、会計監査をして、無駄或いは不法な使い方をしなかったか調べるのが普通である。金銭などと比較しようも無いほどに貴重な人の命を使ったのだから、その使い方に無駄が無かったのかを詳細に調べるべきである。

 

それをしないで、英霊たちは神になった証拠に、毎年我々も国民も参拝しますと、ごまかしているのが現政府ではないのか? 靖国参拝にクレイムをつける中国や韓国に対して、熱くなって敵意をむき出しにするひとたちは多い。頭に氷枕でも載せて、よく考えろと言いたい。

 

2)国を守ることの歴史と意味

 

江戸時代から明治に移るときの政変は、一言で言えば薩長が英国組んでクーデターを起して幕府を倒したことで始まる。そこからの所謂“近代化”は、西欧型社会を取り入れることであった。薩英戦争や下関戦争で圧倒的な差を見せつけられたので、軍の近代化はなかでも必須であった。

 

倒幕の際の戊辰戦争で利用した天皇を、軍の近代化にも利用しようとしたのが、国民皆兵制度と靖国神道(国家神道)の創始である。この時、日本に根付いていた伊勢神道とそのトップである天皇の地位に大きな変化があった。

 

近代国家の必要性を説くことが大仕事だと考えた明治新政府は、それよりも貴族制度を維持したまま国家神道を軸に国民を兵士として調達する方法を考え、選択したのである。日本の歴史が西欧のように、市民戦争から共和制の道をとっていたのなら、国民のための国家であるからと、国民皆兵制度を説得するのは簡単な論理で可能となる。

 

しかし、明治のクーデターから専制君主制とその下に貴族を配する政治制度を作り上げたのだから、国民皆兵性は国民を完全な支配民或いは奴隷と考える以外はかなり困難となる。それでは、強力な軍隊をつくることは難しい。そこで、江戸時代の天皇と庶民が伊勢神道を通して緊密だったことを利用し、靖国神道を作り上げたのである。

 

その結果、憲法には天皇元首制を謳い、軍隊を天皇直属として内閣の外に置いた。それが軍の暴走に繫がったことは良く知られる。その「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という憲法11条の日本(大日本帝国)は、「戦争が外交の一つである」という近代国家の外交と、その社会(ウエストファリア体制)の政治思想を持ち得なかった。つまり、国家の敗戦は国民の玉砕(つまり死亡)を意味するという、怪獣国家を作り上げることになった。

 

その大日本帝国の延長上にあるのが、靖国参拝であり8月15日を終戦記念日とする現在の日本の姿である。戦闘が終わったのは、休戦協定の日であり、戦争が完全に終わったのは、講和条約の日である。私なら、終戦記念日を9月8日にして、それにより国民全てが戦争を再度考える動機とする。多くの謎が、その考察で消滅するだろう。

 

補足:

 

この文章を書く動機は、以下のyoutube動画を見たからである。

 

 

 

そこに以下のようなコメントを残した。何時ものように、ほとんど賛意は得られないだろう。

 

政府は日本国民に何故あれだけ多くの戦死者を出したのかを説明する責任がある。それを戦後75年間避けてきた。政府要人が靖国に参拝するのは、その責任放棄のように私には映る。つまり、「国を守ること=戦死すること」では無いはずだ。

 

勿論、一般人が戦死者の霊に感謝の意を捧げるために靖国に参拝するのは当然だが、それでもあの戦争を実行した政府の責任者も合祀している点で、一部納得がいかない。戦争を指揮した人たちの責任を問うことをしないで、歴史の総括をしないで、あの戦争を丸ごと完全な祖国防衛戦争として美化することになるからである。

 

更に、戦死者だけを何故神として祀るのか? 戦争は輝かしい行為ではない。従って、戦死者は神なんかではない。単なる戦死者である。それなら、伝統的な墓所をつくり、そこに国民は参拝すべきである。戦死者を神にするのには、戦争に対するごまかしがある。

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