2020年8月31日月曜日

中国の超限戦及び厚黒学とどう付き合うのか:

 

1)異文化の人たちとの付き合いには、原点から数歩下がって考えるべき:

 

人間は社会を作って生きている。社会には歴史があり文化がある。それらを共有する人たちが民族を形成し、大きく成長して国家をつくる。この単一の歴史と文化を共有する人々から構成される国では、日常の思考が単純化される。何故なら、文化とは行動のパターンであり、多くの場合、それは論理(正確な言葉)としては記憶されない。(補足1)

 

卑近な例で説明する。日本には殆どの市町村でゴミの分別収集がなされている。プラスチック、雑紙、燃やせないゴミ、燃やせるゴミ、ペットボトル、金属などである。分別の必要性は、環境保全のために再利用するためと説明される。(補足2)

 

しかし、それは将来目標であり、現状は燃やせないゴミも燃やせるゴミも一緒に焼却されているようだ。この辺りは武田邦彦氏がyoutubeで解説している。その一つの傍証は、諸外国ではこの厳格な分別収集はしていない。もう一つは、日本国内でも、このゴミ処理文化に馴染まない外国人居住区では、収集されなかったゴミが散乱している。

 

異文化から来た人達の多くは、多分単純労働者だろう。しかし、海外(つまり日本)に来ることができるのだから、知的には日本の中流階級に相当するだろう。その彼らとのゴミトラブルの解消には、言葉で論理的に説明する必要がある。その言葉で異文化の人との交渉ができないのは、外交が下手な日本政府と同じである。

 

互いに異文化に属する2つのグループの人たちの間のトラブルは、数歩原点方向に戻って論理的に議論すれば解決できる。その訓練は、政治と経済がグローバルになる今後(補足3)、日本国の生き残りのための思考訓練としても有益だろう。

 

因みに、日本ほど原点から遠い文化の国はない。この節の最後に言うのも変だが、原点とは「敵者生存の野生の原理」である。

 

2)異文化の国である中国との外交は、原点思考を採用すべき:

 

中国共産党政権は、民主主義制度を採らないし、厳格な法治主義も採らない。政治文化に関しては、日本国からもっとも遠い国家である。それに比較して、日本は明治以降、英国など欧米諸国の後を追いかけることを、政治経済の方針としてきた。そのため、現在の政治文化は欧米のものにかなり近い。

 

中国共産党政権は、他国の政治文化と全く異なることを自覚しており、既に原点思考を対外戦略に用いている。その一つは、あの「超限戦」という考え方である。クラシックな軍と軍の衝突という通常戦に加えて、戦争を国家テロ、メディア戦、ネットワーク戦など舞台を出来るだけ大きく広げるのである。この考え方は、数学的表現を用いれば、多次元空間で戦争を考えるということである。

 

例えば、戦争に勝つには、軍備も大事だが、敵国にやる気を起こさせない、敵国の民意をバラバラにする、敵の軍備をサイバー戦で動かなくするなど、広い視野を持って作戦を立てることになる。イージス・アショアなどの配備だけでほぼ議論が終わる日本とは大違いである。

 

もう一つ中国の原点思考は、厚黒学である。黄 文雄氏による解説書の副題「腹黒く厚かましく生きよ」が全てを表しているのだろう。自分という人間が今存在するのは、太古の昔からの先祖が、生存競争を勝ち抜いてきたからである。もし、控えめに生きてきたなら、そして策略もなく生きてきたなら、自分は存在しなかっただろう。つまり、控えめな生き方は、単一日本民族文化の原点から遠く離れた文化である。

 

世界の人口は爆発する。それは過去ローマクラブが作り上げた「成長の限界」に予言されている通りである。その時、超限戦と厚黒学の中国はどのように考えるだろうか? 一つのモデルが朱成虎により示されている。それは、西欧文化圏での思考の限度を、厚かましく腹黒く残忍な思考で超えた作戦である。核兵器の先制使用である。(補足4)

 

3)無限遠の理想点は?

 

原点思考とは、原点から無限遠の理想を目指す思考である。無限遠を望む理想は、頭の中だけであっても、最終的に実現可能性を持たなければならない。それを論理的に行うには極めて長い厳密な思考の末に可能となる。普通の頭脳では非常に困難である。しかし、様々な文化がそれを目指して発展してきたのなら、それらを集めて、遠い未来を望む方向で考察議論すれば、可能となるだろう。

 

同じ理想点を常に意識して、複数の民族が自分達の文化を唯一絶対と考えないなら、現時点での共通点を外交的思考の際に先験的な基礎と出来るからである。それら基礎の一つは、西欧民主主義圏では、「人権と法による支配に最高の価値を置く」ことである。現代、その基礎の上だけを議論すれば良い時である。今更、この基礎の部分が異なる人達の国が、彼らの基礎に拘泥するのなら、未来の政治文化を考察する仲間に入れるのは無理である。先ず、異文化の国は、その基礎の部分を「人権と法による支配に最高の価値を置く」を元に再構築すべきである。その後に、グローバルな政治経済の中に含まれたのなら、現在のトラブルは起こらなかった。

 

これら基礎的価値を無視する国々、例えば法による支配の根幹に関わる「事後法による処罰は禁止」を無視する国々とは、外交方針を考える際、数歩以上下がって原点思考をもちいなければならない。つまり、それらの国々の約束は全て信用に値しない。柔軟な姿勢を示すようになっても、文化の基礎が違う以上、何の価値もない。

 

具体的な国名とともにあげれば、親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を持つ韓国や国家安全法など諸法令を事後的に適用する中国などである。

(17:40 採取編集)

 

補足:

 

1)何が善で何が悪か、どのような姿が美であり醜であるのか?など、何を求めてどのように生きて行くべきかという基準が文化の基礎部分を形成する。これまで多くの日本文化論出版されている。武士道(新渡戸稲造)、名と恥の文化(森三樹三郎)、空気の研究(山本七平)などがあった。これらは全て呼んだと記憶しているが、独創的且つ根源的な考察は、最後の本にある。

 

2)「燃やせないゴミ」という言葉を使うのが面倒なのか、多くは「燃えないゴミ」と呼んでいる。プラスチック燃えるが「燃えないゴミ」に分類される。この言葉の誤用すら、誰も指摘しないのが、日本という国である。

 

3)政治経済のグローバル化は必然だが、人も金も国を跨いで自由に移動できるようにするという、米国民主党やウォール街の(ユダヤ)資本家達のグローバル化を意味しない。秩序あるグローバル化された世界政治には、益々主権国家の役割が増加する。

 

4)中国朱成虎将軍の先制核攻撃論について:

 

反中活動家の黄文雄氏によれば、中国人民解放軍少将の朱成虎は1995年ごろから過激な発言を繰り返しており、中国当局はそれに昇進をもって報いていると述べている。朱少将の核攻撃論をまとめたものはウィキペディアの「朱成虎」をご覧いただきたい。超簡単にまとめると以下の通り。

 

「国連の統計によれば、今世紀中には人口過剰の問題が爆発する。 すでに中国、インド、東南アジア等が人口過剰問題を抱え、核戦争をおこなう可能性はきわめて高い。そのドミノ現象で世界核戦争が起こる」

 

「だからこの未来の核大戦に対し、我々は受動的ではなく、主導的に出撃すべきだ」

「人口問題を解決するには、核がもっとも有効にして手っ取り早い方法だ」

「なるべく他国の人口を減らし、自国の人口を多く生き残らせるべきだ。」

 

「もし我々が受動的ではなく主導的に出撃し、計画的に全面核戦争に出れば、情勢はきわめて有利である。政府が核大戦を用意周到に計画さえすれば、しかも我々が先制攻撃をすれば、他国の人口を大きく減らし、我々が再建する場合には、人口的な優勢を保つことができる」

 

「だから政府はすべての幻想を捨て、あらゆる力を集中して核兵器を増やし、10年以内に地球人口の半分以上を消滅できるようにしなければならない」

「我々にとってもっとも敵対する隣国は、人口大国のインドと日本である。 もし我々が彼らの人口を大量に消滅できない場合は、核大戦後は中国の人口が大量に減少し、日本とインドが我が国に大量移民することができるようになる」

 

「アメリカは強大な国力を保っているので、徹底的に消滅させないと、将来大患になる。  アメリカに対しては、我が国が保有する核の1/10で充分だ」

 

「中国人は五億人ぐらいがシベリアに移民する。大量に移民し、ロシア人と共棲すれば、ロシアは我が国に核攻撃はできなくなる」

 

「核大戦のなかで、我々は100余年来の重荷をおろし、世界のすべてが得られる。中華民族は必ず核大戦のなかで、本当の復興を得られる」

 

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