2020年8月19日水曜日

井上陽水(II)氷の世界

人間界は虹のように見る角度により暖かくも見えるし、冷たくも見える。また、残酷なようにも、協調の世界にも見える。それらは全て、人と人が互いに繫がって社会を作って生きているからである。氷の世界は、繊細な井上陽水が歌うこの人間界の理解の一つである。なお、一つの表現から、それがその人の世界観だと考えるのは間違いだろう。

 

窓の外ではリンゴ売り、声をからしてリンゴ売り きっと誰かがふざけて、リンゴ売りの真似をしているだけなんだろう

 

これは主人公が、自分の部屋或いは自分の心理空間に閉じこもると決めていることを意味している。これは、始めのようでもあり、この歌の最後の部分に続くとも考えられる。それは兎も角、俺は今外に出ていく気がしないという心理を歌っている。その理由は、歌詞の一番では、外の寒さ、二番では人の世界との繋がりの薄さ、三番ではそれに対する苛立ち、である。

 

誰か指切りしようよ 僕と指切りしようよ 軽い嘘でもいいから 今日は一日張り詰めた気持ちでいたい。 小指が僕に絡んで 動きがとれなくなれば みんな笑ってくれるし 僕もそんなに悪い気はしない筈だよ

 

この二番目の歌詞は、人の集団に溶け込もうとする主人公を歌っている。既に仲間と見做されている人なら、「よっ! 今日どう? 何か良い話し無い?」と呼びかけるのと同じである。少し距離感がある場合の掛け声を、その動機から心理までを比喩的に表現したらこのようになるのだろう。本当にわかりやすいし、素晴らしい表現である。張り詰めた気持ちは、集団の中にあってその関係に束縛されたいという気持ちを表している。

 

流れていくのは時間だけなのか、涙だけなのか。毎日、吹雪 吹雪 氷の世界

 

主人公な、何らかの言葉を投げかけたに違いないが、そのことばは余程鋭敏な神経と優しい心を持っている人にしか届かない。指切りの相手を見つけられなかった主人公は、再び孤独の世界に沈んでいく。

 

自由は孤独であり、束縛はこころの繋がりを意味している。人間は誰でも真の自由など求めてはいない。束縛の中の自由を如何に作り出すかは、民族や地域により異なる「文化」である。この文化の違いで戸惑うのは、異国からの人、異郷にある人、性格や知性などがかなり異なる人などである。(補足1)

 

井上陽水の両親が京城(ソウル)からの引揚者で、幼い頃から一家は馴染みのないところで暮らした。この感覚は、おそらくその時から持っているものだろう。

 

人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな だけど出来ない理由は やっぱりただ自分が恐いだけなんだな その優しさを密かに 胸にいだいてるひとは 何時かノーベル賞でももらうつもりでガンバっているジャないのか

震えているのは寒さのせいだろ 恐いんじゃないネ 毎日 吹雪 吹雪 氷の世界

 

なかなか社会に溶け込めないとき、時として、暴力に訴える場合もある。その暴力に訴える人たちが集団化して新しい社会を作る場合もある。暴走族やヤンキー(不良少年など)らの暴力集団は、そのようにして生じた集団だろう。

 

氷の世界の3番目の歌詞の「人を傷つけたいな」も、すんなりと社会に受け入れてもらえない苛立ちを表している。しかし、そのように悪に走るには、心優しい人は自分を改造する必要がある。その恐ろしい自分を心の片方に感じて、震えを感じる主人公は、元々融和で豊かな幼少期を過ごしたのだろう。(補足2)

 

 

 

 

 

なお、井上陽水と仲の良いタモリが陽水を語っているページをみつけたので、サイトを書いておきます。ヒット曲がきっかけで、このような素晴らしい仲間を得たのだと思う。

https://www.pen-online.jp/news/culture/pen_inoueyousui_tamori/2

 

 

補足:

 

1)この集団への溶け込みとして、よく実行されるのが、道化である。道化は、既に集団の中に居ると認められている人が、人との繋がりを簡単に再確認させる場合に行う。そのお道化を演じる当事者は、離れていく自分を感じて、その人々の動きをリセットする場合に行う場合が多いと思う。それが芸能となったのが、漫才などのお笑いのなかのお道化である。私の少ない読書のなかで、小説のなかで記憶に残るこの種の”お道化”は、太宰治の人間失格にある。主人公が幼い頃演じる道化である。

 

2)陽水の父親はソウルに軍医として勤務していた。父母はその地で知り合って結婚したとウィキペディアには書いてある。軍医という身分や現地で結婚したことなどから、おそらく、周囲と比較して豊かで幸せな家庭に育ったと想像できる。

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