2020年9月11日金曜日

天皇機関説と解釈改憲

先日、「日本人の国家意識欠如の歴史」と題した記事において、現在の日本国民に日本国を自分たちが統治するという意気込みが全くないこと、その理由として、戦後日本政府として明治以降の近代史の総括なしに、専制政治の憲法である大日本帝国憲法(明治憲法;1889/2/11公布)から民主主義の日本国憲法に改憲したことを指摘した。

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12622220577.html

 

明治憲法は専制政治の憲法であるというのは、伊藤博文は王様が統治するプロイセン(今のドイツ)の憲法を手本に書いたのだから当然である。ドイツでは、1919年の革命によりワイマール憲法に替わった。(補足1)しかし、日本は革命によらず敗戦と米国の占領とにより、明治憲法の手続きに則り新憲法に改憲された。この天下り的に民主主義体制を得たことが、先に指摘したように、国家意識の薄弱な理由である。

 

先日の記事の中で、国民の政治意識が高まった時期として、吉野作造の民本主義などが喧伝された大正デモクラシーの大正時代(1912-1926)に言及した。吉野作造は、東京帝大法学部で政治史を講義していた。同時期、憲法論から民本主義を支えることになったのが、美濃部達吉であった。天皇機関説である。しかし、美濃部達吉は東京帝大で憲法学を講義する教授ではなく、行政法が担当であった。

 

東京帝大法学部で憲法学を講義したのは、美濃部が学生の頃は穂積八束であり、その後を継いで、天皇主権説を主張した上杉慎吉であった。この天皇機関説の美濃部達吉と天皇主権説の上杉慎吉の論争は、美濃部の”解釈改憲”の主張と上杉の言葉通りの憲法解釈の衝突である。この”天皇機関説論争”について、少し調べたので書く。

 

これらの情報は、原田武夫著「蘇る上杉慎吉」による(以下頁数はこの本のもの)。この原田氏の本を読んだ限りでは、美濃部と上杉の論争は、行政法担当の美濃部による“世間に媚びたような憲法解釈”と憲法学担当の上杉の“厳密な憲法解釈”の衝突である。それは、原田氏の本を読んだ限りでは学問的論争という風には見えない。

 

2)民本主義&天皇機関説と大日本帝国憲法

 

吉野作造は、憲法の天皇主権には抵触しない形で民主政治を主張したので、「民本主義」と呼ばれた。中央公論に1916年に発表された論文の題は、「憲政の本義を説いて、其有終の日を済す(なす)の途(みち)を論ず」である。つまり、大日本帝国憲法の本義は、最終的に民主政治の実現にあるというのだろう。

 

これは、国家体制(国体)は天皇主権であるが、統治権の運用形式である政体は一般人民の為に機能するとう考え方である。確かに、大日本帝国憲法には、居住の自由、裁判を受ける権利、信書の秘密保持の権利、信教の自由、結社の自由など、現在の憲法と変わらない記述がある。しかし、憲法において内閣総理大臣の地位に関する記述はない。単に国務大臣の一人に過ぎない(第55条)。陸海軍は天皇直属であり(第11条)、行政権は完全に天皇の下にある。立法権も第5条と第6条により、天皇に属する。この憲法から、民本主義を読み出すことは言語学的に不可能だろう。

 

実際、この民本主義を、東京帝大法学部で憲法を講義する上杉慎吉は、明確に否定している。上杉は、「大日本帝国の国体即ち国家としての形態は、君主国体であり、絶対的な命令権である統治権を唯一人の自然人が有している」と考えた。(47頁)自然人とは、普通の意味での天皇を意味する。

 

一方美濃部は、「天皇は最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼(ほひつ)を得ながら統治権を行使する」と説いた。(補足2)天皇が機関なら、そして自然人としての好みや恣意的判断が殆どないのなら、輔弼という形式で民主主義が実現できると考えたのだろう。それは、民本主義を歓迎する日本の空気を読んで出されたのだろう。したがって、憲法論争になる筈はない。

 

東京帝大法学部教授二人による論争だが、この言い争いが学術論争のように扱われたのは非常に不思議である。日本という国の言語環境の悪さが、其の根底にあるような気がする。そこで、上記原田氏の本から、天皇機関説が作られた経緯を書く。

 

美濃部の東京帝大教授への出世のキッカケとして、時の文部大臣の娘との結婚があったという。そして、広い人脈を得た美濃部は「権力に魅入られたプリンス」となった。(p86)しかし、美濃部は憲法学の講義をさせてもらえなかった。憲法学の講座は、美濃部の目には自分とは比較にならない地味な上杉慎吉が担当していたからである。

 

その美濃部は、学生たちが一年の時に上杉の講義で聞いた「天皇主権説」を、二年と三年のときに担当する行政法の講義の中で否定し、憲法学を講義させてもらえなかった苛立ちもあって、天皇機関説を熱の入った喋り方で講義した。(補足3)

 

その後の大正デモクラシーの嵐のなかで、美濃部の天皇機関説も力を得た。そして、1920年東京帝大に憲法第二講座が開設され、美濃部は担当教授となった。著者は、ここで美濃部が上杉に勝ったと書いている。また同時に、美濃部は最初から天皇機関説を完成していたのではなく、それは上杉との激しい”論争”の中で創られていったと記している。(P93)

 

3)私の考え

 

吉野作造の主張は、「主権者は一般民衆の利益を重んじことを方針とすべき」である。その空気が日本社会に醸成されたのは、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の三度の戦争で、命を犠牲にしたのは一般大衆だからである。明治の自由民権運動もあったが、この大正デモクラシーの時期こそ、憲法改正の必要性を考える人は多かっただろう。しかし、民主主義の必要性を感じる人の数とそのエネルギーの成長よりも、天皇の権威が高まるスピードの方が早かっただろう。

 

大日本帝国憲法は、どう呼んでも天皇が君主であり、国民は臣民である。明治の改革が軌道に乗った早い時点で、天皇は国家元首であるという条文を置き、それとともに、内閣総理大臣を行政の長とし、軍隊を例えば防衛省の下に置くなどの憲法改正が行われるべきだったと思う。

 

天皇は、薩長土肥と京都の一部下級貴族が、倒幕と戊辰戦争で担ぎ上げた存在である。それ以前には、神道のトップとして存在し、現実の政治に関与する存在ではなかった。従って、天皇を国家の統治者に担ぎ上げた薩長の維新第一世代の人たちなら、立憲民主制にふさわしい憲法への改正は可能だったと思う。

 

その憲法改正の必要性を阻害したのが、美濃部の天皇機関説の主張である。上杉が天皇主権論を講義しており、それが大正デモクラシーの要求と衝突することで、生みの苦しみとして世情不安の時期が訪れるだろうが、憲法改正ができた可能性が多少ともあったかもしれない。

 

美濃部は「憲法に触らないで、民本主義をその中に読みとる」という結論を設定し、無理矢理に論理の組み立てを行った。そして、天皇や臣民の定義すら、その結論のために歪めようとしたのである。一方、上杉の天皇主権論は、自然に憲法を読んだだけであり、おそらく「美濃部は何を訳の分からないことを言っているのだ」というのが最初の正直な感想だっただろう。外部からは論争に見えただろうが、最初から議論がかみ合っていなかった筈である。

 

美濃部の言語学的にはほとんど誤魔化しのように聞こえる不思議な説は、上に述べたように、一種の解釈改憲である。解釈改憲は、言語の厳密性を毀損することになり、国民の政治全般に対する信用を失わせることになる。現在も似たような状況にある。自衛隊は、集団自衛権の行使も出来る軍隊になっているが、それでも憲法9条はそのままである。解釈改憲は、肝腎なところでボロが出る。明治の天皇機関説という解釈改憲は、1935年(昭和10年)天皇機関説事件で葬り去られた。

 

どのように読んでも、憲法9条は自衛隊という軍隊の保持を禁じている。その判決を避けた最高裁判所は、思考力や想像力の乏しいやる気のない秀才たちの城に見える。東大(昔の東京帝国大学)の憲法学の石川健治教授は憲法9条の改正に反対している。しかも、「ユートピアニズムが制度化された中での、より強靱なリアリズム。戦後の国際政治、安全保障がめざすべきはそれであって、安易な同盟政策のリアリズムではないように思う」と馬鹿なことを言っている。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/06/blog-post_21.html

 

日本という国では、政治と近い所に大学などを置くべきではないのだろう。しかも、そこが政界や官界で活動する人間の供給元になる場合、尚更である。効果的な日本改革の一つの方法は、東京大学の移転かもしれない。

 

補足:

 

1)その民主主義故に、ドイツはヒットラーの全体主義を生んだことにも注意が必要。この弱点克服には、日本人全てが国家の統治者であるという意識を持ち、常識的判断ができるように努力することである。(民主主義の欠点:https://www.youtube.com/watch?v=rGLCZKSxBz0&t=915s

 

2)この辺りの言語の使い方は、訳の分からない経を読む坊主の姿に似ている。大日本帝国憲法をどう読めば、そのような意味になるのだろう? 確かに大日本帝国憲法第二章(18−32条)には、臣民の権利と義務が書かれ、兵役の義務を記した第20条以外は、現在の憲法に似ている。しかし、第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と、第20条「臣民として兵役の義務を負う」とを合わせば、民主主義を完全否定している筈である。民主主義であれ民本主義であれ、憲法改正以外に実現の方法はない。

 

3)この部分は、土方成美「学会春秋記 マルクシズムとの抗争三十余年」中央経済社を引用して記述している。

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