2021年8月16日月曜日

8月15日が終戦の日と呼ばれるのは何故?

815日は、終戦の日と呼ばれ、毎年全国戦没者追悼式が挙行される。この終戦の日という呼称は、日本政府の内向けプロパガンダ用語である。何故なら、一連の戦争は日本国政府が日本国民を徴用して行ったにも拘らず、「戦争が終わった」という第三者的表現を用いているからである。

 

敗戦なら、自分の国の問題であり、その政権担当者の責任が当然問題になる。しかし、戦争が終わった(終戦)という姿勢なら、「平和になって、お互いに良かったね」で済ませることが言葉の感覚上可能である。

 

 

今年の式典での菅総理の式辞も、以下のような文章が挿入されている。

 

祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場にたおれた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々。今、すべてのみ霊の御前にあって、み霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。

 

菅総理は、戦乱の渦という天然災害風の言葉を用い、日本国政府の行為者としての責任を不明確にし、国内での責任問題の多くを無視できる様にしている。(補足1)

 

更に追加すれば、8月15日は対米戦争終結の日ではない。その日は、ポツダム宣言受諾の通知を連合国に送ったと昭和天皇がラジオ放送を通じて全国民に通知した日である。しかし、戦争はその日に終わった訳ではないのだ。日本が降伏した日等については、次のセクションで少し詳しく振り返る。

 

日本のマスコミは、毎年この大事なことには一切ふれず、戦争責任については議論しないという政府方針に盲従するのみである。

 

2)日本降伏の通知

 

日本国が、対米(対連合国)戦争において、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通知すべく、中立国(スウェーデンとスイス)に依頼した日は1945811日であった。そこから連合国側に渡ったのも、多分同じ日だろう。その前日の810日には、短波放送(国際放送)で受諾の意志を英語と日本語で放送している。

 

しかし、政府内(軍を含む)では、徹底抗戦の動きやクーデターの計画などもあり、一応ポツダム宣言受諾が統一意志となったのは、14日の御前会議の後である。そして、レコード板に録音された天皇によるポツダム宣言受諾決定の言葉が、日本国内で放送されたのが815日である。

 

只、日本は講和するべきだとの意見が東條閣内で出たのは、ウィキペディアによると、1944年7月にサイパン島での戦いに日本軍が負けた時であった。国務大臣岸信介(当時軍需次官兼務)により東條英機首相に出され、それが東條内核の総辞職につながった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F

 

その後、小磯國昭内閣から鈴木貫太郎内閣(4月7日〜817日)へと政権が移り、鈴木貫太郎はポツダム宣言受諾を連合国側に通知した後、東久邇宮稔彦王に総理の椅子(817日〜109日)を譲った。東京湾に浮かんだミズーリ号上での終戦協定調印がなされたのは、92日である。米国は、この日を戦争が終わった日としている。

 

このサイパン陥落からの1年間の日本の消耗は大きい。何故、もっと早く敗戦を受け入れ、講和に動かなかったのか? それを多くの角度から検討すべきである。個々の賠償を議論する為ではなく、日本国をまともな主権国家とするために、これら近代史の総括をすべきである。問題解決が新たな問題を生むことも多くなり、明治時代からの政治と外交全体に関する常識がひっくり返ることになるかもしれない。しかし、それを行わなければ、今後の国際環境を生き残る体制建設は無理だろう。

 

最終的に戦争が終わったのは、講和条約が発効した日である。主な国々とは、1952428日がその日である。ただ、ソ連との戦争状態は、日ソ共同宣言の1956年まで法的には継続している。日ソ共同宣言が、ソ間との講和条約と見なされている。(これは、単なる宣言ではなく、両国間で批准書を交換している。)(補足2)https://toyokeizai.net/articles/-/80286

 

このように戦争終結の日自体も簡単には決定できない。しかし、8月15日を戦争が終わった日にすることは大きな欺瞞である。世界中のどの国もそれを日本の敗戦の日とはしていないからである。日本政府は、戦争の歴史の議論を避け、それを誤魔化すためにこの日を終戦の日としているのだ。

 

3)明治憲法と昭和憲法の問題

 

日本は、一年前に敗戦必至と軍需担当の岸信介が考えた時から、1年以上消耗戦を続けた。国民一般の視点から見れば、悲劇の蓄積に見える。それは、政府内で立場の共有が成されず、まともな意見の交換が為されなかったことが原因であると私は考える。つまり、権力が天皇にあるのか、軍隊にあるのか、それとも内閣にあるのか解らない状況にあったのではと想像する。

 

その様な場合、状況が不利になればなるほど無責任体制に向かう。そして、米国とソ連がヤルタ会談で密約をしたらしいことも、全く権力中枢の共有となっていなかった。(補足3)19458月まで、内閣構成員の多くが、ソ連に停戦の仲介を期待していたという愚かな状態だった。

 

明治以来の大日本帝国憲法は、国家の形態として天皇の独裁制を規定している様に読める。しかし、天皇独裁は現実ではなく、実質的には内閣が多くを取り仕切っていた筈である。国家がまともに機能しなかったのは、全てを取り仕切る権力の在り処を内閣総理大臣にするように、憲法を改正出来なかったからだろう。(補足4)

 

つまり、薩長のクーデターによる新政府が、日本国内で十分な支持を得るように天皇親政の制度にした。天皇の影に隠れる様に存在する国務大臣の各々が「輔弼」と憲法第55条に書かれているように、天皇に進言する形で政治をすすめる。内閣総理大臣は憲法上、無任所国務大臣のような存在であった。そのような手法は、戦時下には能率よく機能する筈がない。

 

本来は、夫々の国務大臣を内閣総理大臣の下におき、内閣総理大臣が天皇に助言(輔弼)する形に国の形を変更すべきだったと思う。それと、「憲法第11条の天皇は陸海軍を統帥す」という、軍が天皇に直属するという規定も改定し、内閣総理大臣の下に置くことで一応体制が整うだろう。そのような憲法改正が出来なかったことに、敗戦の原因の一つがあったと思う。

 

なお、輔弼とか統帥とか、訳の分からない言葉で憲法を書いている事自体が、まともな国家でないことを示している。権力の在り処が明確でない体制で戦争に負けたのだから、その責任を明確にできないのは当然だろう。戦後は、権力そのものを否定する憲法をGHQに強制された。それは日本の政治のあり方が、マッカーサーが米国議会で証言したように、未だ12歳の子供の状況だったからだろう。(補足5)

 

 

4)終わりに

 

終戦記念日という言葉の無責任な響きに、国民は気付いていない。そのような言葉を用いるのは、以上のような議論を封じる目的があってのことだと思う。「敗戦の日と呼ぶのは自国の恥を晒すようで、面白くない」という意見は理解できる。それなら、再出発の意味を込めた名前をつければ良い。「日本の明日を考える日」でも良いし、何か別の再出発を印象つける名詞を冠につければ良い。

 

その日には、日本の敗戦の歴史を復習し、そこから何を学ぶべきかを国民全てが考えることにすれば良い。そして明治以前からの近代史を、国民がもっと詳細に学ぶべきである。その様な事態を避けたいというのが、現在の日本政府の方針の様である。その理由のひとつは、大日本帝国から現在の日本政府まで連続しているからだろう。

 

敗戦を、まともに敗戦と呼ぶことから、日本の戦後の復興と国家組織の再構築が可能となる。その障害に天皇制がなるとは思えない。天皇の国事行為を国会の開会宣言など重要なものに限定し、大幅に縮減すべきだと思う。そして天皇を政治利用する機会を減らして、最終的に江戸時代までの形に戻せば良いと思う。そのために天皇の住処を、京都御所などに移すのは、日本の政治をまともにする上で良いアイデアであると私は思う。

 

(17時50分、編集、補足3を追加、補足番号変更)

 

補足:

 

1)過ちを犯したのが当時の政権なら、その延長上の政権まで、何の責任もとらず今尚日本を統治しているのは何故なのか?それを明らかにしないで、「犠牲となられた方」という表現をその惨劇責任者の筆頭候補が使うのはおかしい。日本は敗戦後、革命的な政治的変容を遂げるべきだった。それを成し得なかったことが、今尚国家として体をなしていない原因だと思う。

 

2)中華民国(台湾;国民党政権)とは19524月、インドとの間では19526月、ビルマとの間では195411月に、それぞれ平和条約を締結し、いずれも賠償請求権は放棄された。中華人民共和国とは、1972年に日中国交を回復し、日華平和条約は破棄された。そして、1978年には日中平和友好条約が締結された。https://www.y-history.net/appendix/wh1602-014_1.html

 

3)ヤルタ会談は1945年2月にクリミヤ半島のヤルタをF. ルーズベルトとW. チャーチルが訪問してスターリンと3人で行われた。何故、ルーズベルトとチャーチルが遠路クリミヤを訪問する形で会談するのか、日本からみて極めて怪しげな動きである。諜報機関がまともなら、何かあると嗅ぎ取るのが自然である。

 

4)内閣総理大臣を権力の元締めとすることで、天皇の国家元首としての権限は小さくなる。しかし、それがまともな立憲君主制の姿だと思う。従って、憲法における天皇に関する記述は、現憲法のものが良いと思う。内閣総理大臣を、会社のCEOのヘッドハンティングのように首相公選性で決定すれば、尚良い。

 

5)巨体を持った精神年齢の小さい存在は、将来厄介な存在になり得ると考えたのかもしれない。それ以降、日本はマトモな国になっていない。未だ12歳児のままである。

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