2022年2月20日日曜日

ジョン・レノンと親鸞に共通の思想

前回記事に米国在住のchukaのブログさんからコメントをもらった。その一つ目への返答の付録が以下の文章である。前回記事では、何か問題が生じ、当事者間で話をしているが解決にほど遠い場合、それが単に解釈の差なのか、元々立場(=思考の枠組)に違いがあるのかを明らかにすることは問題解消の上で非常に大事であるという内容を、原点から記述したつもりである。

 

今回は、特に親鸞の歎異抄(唯円の著作)の中の言葉「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」についてのコメントに対する返答の意味も兼ねて、親鸞がこの言葉を口にした時の「思考の枠組」がジョン・レノンが「イマジン」を作詞したときのものと同じであることを示す。原点から出発して話を展開するので、まどろこしいと思われるかもしれないが、ご容赦を。

 

1)善と悪の起源は共同体社会にある

 

「思考の枠組」はパラダイムとほとんど同じ。話の中での基本的条件、設定する仮定や基本的概念一組である。言葉を用いて論理を展開する前にそれを定義しないと、途中で話が通じなくなる。もちろんデフォルトの思考の枠組が多くの場合存在する。

 

多くの基本的概念は、人種や時代を超えて共通である。それは、“心理学や精神病理学からの人間の発想の共通性”ということとも関連しており、その共通性は人間の生存とその基本的形式と関係していることから生じると思う。従って、個人に関する思考の多くは、通訳を入れれば外国人でも通じる。

 

ここで原点(原始時代の人の立場)に戻って考える:

人間は群れを作って生きる。何万年も前になるだろうが、その群れが大きくなり複雑化して、社会(=共同体)と呼ばれる様になる。言葉は、運命共同体である社会の中で、農作物の生産から敵との戦いまでの範囲で、情報交換のために作られ進化したというのが私の考えである。それが、私の「言葉の進化論」である。

 

言葉の進化論(3): 善悪に見る言葉の壁https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12484224705.html

 

2)基本的概念である損得と善悪の分離

 

ABの二者択一の問題において、好ましい方がAなら、Aが得であるという。この損得は、個人にとっても共同体全体にとっても、同様に用いられる。上記言葉の進化論では、共同体社会が大きく複雑になったとき、新たに善と悪という概念が発生したと考える。

 

共同体に対して「得」となることを形容する言葉が「善」であり、共同体に対して「損」となるのが「悪」である。つまり、個人の損得と運命共同体である社会全体としての損得が、明確に乖離してしまったので、新たに善悪という概念が必要となったのである。損得は個人から社会全体に対して共通の概念であり、より基本的である。

 

それにも拘らず、通常、「損得」に対して「善悪」を優先するのは何故か。

それは、言葉はそもそも社会の存続と隆盛のために存在するからであり、そして人間の生存にとって社会を作ることが必須だからである。

 

人間が個人で瞑想・思索するとき、本来社会のものである言葉を借りて思索すると言って良い。原点にまで戻れば、「善悪」は個人の心の中では本質的ではなく、社会の方に顔を向けた時だけ(本来は)意識する概念である。(補足1)

 

この損得と善悪の間は、社会が大きく複雑になるほど、つまり時代を下るに伴って、大きく乖離するようになる。それは以下の状況を考えればわかる。

 

ある共同体と別の共同体の間で生存競争が生じたとき、善悪を個人の損得に優先しなければ、その群れ(共同体)は敵に負けて全員命を失う。そこで、複数の群れが共存する社会に生きる状況下では、善悪が損得に優先して個人のこころの中にまで植え込まれた群れ(共同体)が生き残る。

 

その善悪を崇高な概念として人の心に植え込むのが、宗教の役割である。つまり、敵と戦って命を失うことは個人にとって最大の損だが、所属する共同体にとっては最高の善となるのである。しかし、善を優先して戦死する個人は浮かばれない。そこで宗教は天国と地獄を発明したのである。

 

この偉大な発明により、現世では社会的な概念に過ぎない「善」が、個人においても最高の人生の物差しになり得る。人は言葉により人間として生まれ変わり、善を積み上げて天国に生まれ変わるのである。これがキリスト教などヤハウェ神の宗教の本質だろう。

 

言葉の進化論は、このようにして、言葉は社会、人、宗教が三重螺旋的に発展するプロセスで作られ進化したという仮説である。

 

3)親鸞とジョン・レノンはトリックを見破った

 

親鸞の言葉は、「本当に苦しいのなら、善悪を忘れても良いですよ」というのが本質だろう。しかし、完全に善悪や天国と地獄に洗脳されている衆生を救うには、その言葉のセットをそのまま使う必要がある。他力を信じて南無阿弥陀仏と唱える者は全て極楽往生する。それが弥陀の本願であると教えた。

 

親鸞は、善悪に最高の価値を置く“トリック”を見破っていた。つまり、わたくしは親鸞は無宗教だったと思う。それゆえ、躊躇うことなく多数の妻を娶ることも出来たのだろう。

 

ビートルズの歌曲にイマジンというのがある。Imagine there’s no heaven. It’s easy if you try. No hell below us. Above us, only sky. (天国の地獄も無いと想像してごらん。難しいことでは無いから)そして、Imagine there’s no countries. Its isn’t hard to do. Nothing to kill or die for.(国なんて無いと想像してごらん。難しくないから。そのために殺したり、殺されたりすることなんか無い。)

 

 

 

 

恐らく、ジョン・レノンは、小野洋子との付き合いの中で、仏教特に親鸞のことばに学んだのではないだろうか。(補足2)

 

つまり、通常(デフォルト)の思考の枠組みでは善悪を絶対的な概念として取り入れるが、親鸞やジョンレノンが上記のような言葉を口にするときには、それらが取り外し可能であることを示しているのである。

 

(編集あり、11時45分;最後の文は16時に追加)

 

補足:

 

1)個人の生存が共同体社会の存続とは無関係だと感じる時、つまり、平和が続き社会が安定化して暫くすると、人は善悪の縛りを鬱陶しく感じ、自由になろうとする。宗教的道徳的には堕落する。

 

2)親鸞は、現在の感覚では極限の貧困の中で、ジョン・レノンは豊かさの浸透の中で、神や仏の虚構を見破ったのだろう。ただ、ジョン・レノンは、国家の意味を過去に遡って知っていたのだろうか? 

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