2022年4月13日水曜日

ウクライナ戦争は短期終結しないこととその理由(一部再投稿)

ウクライナとロシアの戦争が続いている。この戦争を解く鍵は、ユダヤ系を中心にした第二次グローバル化の動きにあると思う。スイスの世界経済フォーラム(WEF)を基点にして、米国の富豪たちを含めた人たちによる政治権力のグローバル化の企みである。(実際、あの永世中立国のスイスが早々とウクライナ支援に動いた。https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/03/0ef07ca50bb1c3f2.html)

 

今回、7年も前に投稿したブログ記事「第4の権力と第5の権力」を再投稿することにしたのは、これらを深く考えるには、世界の権力の構造を知る必要があると思ったからである。改めて読み直し、ある種の恐怖を強く感じた。恐らく、「ホロコーストのガス室は無かった」という記事を掲載したことで廃刊に追い込まれたマルコポーロのHanada氏が持った気持ちと同種のものだろう。

 

あの廃刊事件は、ユダヤ人の団体「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」による文芸春秋社の説得(“脅迫”)による。「言論には言論で対抗するという原則」をあなた方はまもらなかったと抗議をした人に対するSWCの答えは、次のようだった。「SWCの圧力を暴力というなら、暴力は必ずしも恥ではない。この様な圧力は道徳にかなっており、質疑応答と同じくらい正しい行為とみられているのだ。」

 

このSWCの考え方は、「第二次大戦の敗戦国が行った象徴的な非人権的行為に対する現在の評価が絶対であり、再評価(つまり月刊マルコポーロの記事掲載など)は絶対に許さない」という姿勢である。そこでは法の不遡及や報道の自由という近代文明の原則も、適用除外となる。

 

この7年前の記事を今再掲するのは、今回のウクライナ対ロシアの戦争は決して短期には終わらないということを示しているからである。

 

現在、欧米からの物的知的さらには諜報を含む支援により、ロシア対ウクライナの戦争は、ウクライナ有利の情況で推移している。もしプーチン・ロシアがこの戦況下で講和をすれば、それは現在報じられている不利な情報は、全てロシアの戦争犯罪として後世に固定化されるだろう。

 

ロシアが否定しているマリウポリの小児科病院の爆破もブチャでの大量虐殺も全てロシアの戦争犯罪とされ、プーチンは21世紀のヒトラーであるという歴史が正史となる。その後、この考え方に異論を差し挟む者は徹底的に弾圧され、その弾圧が正義とされる。それは、上に太字で書いた文章において、第二次大戦が今回のウクライナ戦争(或いは、第三次大戦)に入れ替わることである。

 

ウクライナ人(多分、ロシア系ウクライナ人を念頭においてのことだろう)を解放すると言ってこの戦争を始めたプーチンには、それは耐えられない屈辱だろう。つまり、勝つか自害か暗殺かの道しか、プーチンには残されていないのである。

 

この様な「プーチンの排除がなければ、戦争は終わらない」という考えは、あのエドワード・ルトワック氏(「戦争にもチャンスを与えよ」の著者として日本でも有名;2017/7/1に感想を記事にしている)が、月刊Hanadaの5月号(3月下旬に発売)に書いた「戦争終結、唯一のシナリオ」という文章で明確に示している。

 

追補:

 

SWCに関する一つの文献を示す。「原爆投下を戦争犯罪と見做さないサイモン・ヴィーゼンタール・センター」 ここに、第二次大戦の歴史の見直しは許さないという姿勢が多くの例とともに書かれている。

 

この姿勢は、真理が明白だからではない。国際社会は強いものが勝つ世界であり、真理よりも最終的に力で決まる。力によって得たものは、力によってしか覆せないのだ。それが、この引用文献にあるように、「広島と長崎に落とした原爆による民間人虐殺も悪ではない」というSWCのアブラハム・クーパー氏の思想だと思う。

 
つまり、この人間社会の原点は、野生の世界である。「言論の自由」も「ペンは剣よりも強し」も文化的産物である。戦争にもクラウゼビッツ風の文化の中の戦争(ルトワックの「戦争にもチャンスを与えよ」の戦争)もあるが、第二次大戦は、これら文化以前の戦争であると勝者が決めたのだ。それにより、この戦争での勝者には戦争犯罪は存在しないし、東京裁判は戦争の継続ということになる。
(11時15分追加) 
 

 9:40,編集

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以下、2015/11/30のブログ記事を再掲します。

第4の権力と第5の権力

政治の三権は立法、行政、司法である。それに諸外国との外交によって、日本の政治は動いている。その表の存在は独自の動機に基づいて動いているのなら、純粋に民主主義で政治は動いていることになり話は簡単だが、現実はそうではなさそうだ。裏の政治的力として国内にはマスコミがあり、国外にはどこかからの資金あるいは意思により動く政治的団体が多くある。それぞれをここでは、第4の権力及び第5の権力と呼ぶ。

 

権力とは、ウィキペディアによれば、“何らかの「権力手段」、「基礎価値」をもつことによって、ある者が他者をその意に反してでも行動させうる、特別な「力」”と定義できるようだ。政治の世界で考えれば、権力手段と基礎価値は、それぞれ、行政機関などの政治的機関と民衆の意思により与えられる権威と考えられる。このように政治権力を考えると、上記第四の権力も第五の権力も、政治権力というより政治的力と呼ぶ方が良いのかもしれない(補足1)。

 

1)第4の権力:

 

第4の権力として、マスコミが議論されてきた。マスコミを権力と呼ぶのは上記「基礎価値」に欠けるので、厳密には間違いだろう。正確には第4の政治的力である。例えば、国会議員になるにはマスコミで名を売る必要があり、政治家を予定するものに政治的権威をあたえる機関とも言える。更に、より重要かもしれないのは、マスコミが国民に供給する情報にフィルターを掛ける能力がある。そのフィルターは独自のものもあれば、政府やその他の圧力団体からのものもある。何れにしても、国民の政治的判断に影響をあたえ、それが、従来の三権を間接的に動かすことになる。 

 

具体的には、例えば隣国の反日姿勢は、政府が行った教育とマスコミの増幅作用により、出来上がったものだと理解する。また、それに日本のマスコミが与えた影響も大きい。それに対する日本側の反応も、同様のメカニズムで作られたものである。歴史家を動員して過去の出来事を、その時点での価値観、風習及び文化に従って解釈し、それを両国民に提供すればこれほどの対立は起こらなかっただろう。

 

2)第5の権力:  

 

更に強力なPowerとして第5の権力が存在すると思う。それは国際的に存在する多くのNGO組織であり、外交ルートにはない国家内部に直接働きかける能力を持つ。恐らく、表に現れる部分と陰に隠れた部分があり、これらの幾つかは陰の部分でつながっているかもしれない。 

 

例えばアムネスティーインターナショナルという団体は、人権擁護を表看板にしているが、政治的な人権擁護活動をしているようだ。この件については既にブログに書いたが、要点だけ再録する。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42521533.html

 

同団体は、2003年に元日本軍慰安婦の人々の行動にたいする連帯を表明している。それを紹介する文章の中にアイリーン・カーン事務総長の言葉として、「従軍慰安婦の人びとは、拷問と性奴隷制の被害者である。そして、この件は民間人に対する広範かつ組織的な人権侵害であり「人道に対する罪」を構成し、時効等の法的な制限要素が当てはまらない」と書かれている。この件、詳細な調査を行った日本の歴史家が、上記の評価は正当でないという本を出している。しかし、そのようなことは完全に無視している(補足2)。この声明に対して私は、永遠に日本を非人道的行為の主体として、“牢獄”の中に閉じ込めようという政治的意思を感じる。

 

もう一つの例は、サイモン・ヴィーゼンタール・センター(Simon WiesenthalCenter; SWC)による月刊誌マルコポーロの廃刊事件である。この事件は、同誌が1995年2月号に「ナチ「ガス室」はなかった」という記事を掲載したことに始まる。海外にその内容が紹介されたところ、SWCの強い抗議を受けた。この抗議は当然のことではある。しかし、その後SWCは同誌に広告を掲載する企業に圧力をかけて、広告を引き上げさせ、親会社の文藝春秋をして、マルコポーロ2月号の回収、編集長の解任、マルコポーロの廃刊に追い込んだのである。http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc600.html

 

その後、SWCは廃刊になったマルコポーロの編集部員全員と文藝春秋の社員のために「ユダヤ人理解の為のセミナー」を、文芸春秋社の寄付金を用いて開催したという。このセミナーの2日目に、SWCに対して「言論には言論で対抗するという原則」をあなた方はまもらなかったという抗議をした人がいた。このベテラン編集者に対するSWCのバリッツアー博士の答えは、次のようだったという。 

 

「SWCの圧力を暴力というなら、暴力は必ずしも恥ではない。アメリカでは日常茶飯事のことである。アメリカの独立はボストン茶会事件(1773年)でのボイコットから始まった。アメリカではこの様な圧力は道徳にかなっており、質疑応答と同じくらい正しい行為とみられているのだ。」

 

このSWCの考え方と上記アムネスティー事務総長の意見とは、よく似ている。つまり、「第二次大戦の敗戦国が行った象徴的な非人権的行為に対する現在の評価が絶対であり、仮にその行為に関する記録に捏造があったという疑いが生じても、その行為に対する再評価は絶対に許さない」という姿勢である。そこでは法の不遡及や報道の自由という近代文明の原則も、適用除外となる(補足3)。

 

英米、英米に強い影響力を持つ勢力、そして、それらに追随する勢力は、“事実は一つしか無いのであるから、調査究明すべき”という考え方をする人をrevisionist(歴史修正主義者)と言って非難するのである。一時安倍総理も米国でrevisionistではないかと警戒されていたらしい。その後の姿勢の調整や米国議会での演説で、その容疑は晴れたのかもしれない。

 

以上から、国際NGO団体の幾つかは政治的に中立ではなく、連携してグローバルで強力な第五権力を主張しているように見える。

 

== 12/1 一部修正;なお、以上は素人が勉強のために書いた覚書です。あやまりなどあれば、ご指摘ください。==

 

補足:

 

1) 国際連合などの表の国際政治機関は、国家の行政が働く対象あるいは舞台と考える。

2)   このような声明が出ると、「詳細に調査すればわかることなのに、なぜ安易にそのような声明を出すのか」という不満が日本国内から出る。しかし、その意見はこの種の機関の本質がわかっていないナイーブな人のものだと思う。

3)   韓国は、親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定し、それ以前の時代に親日であった人の財産を、法の不遡という原則を無視してとりあげた。また、親日人名辞典を配布して親日の韓国人を思想の自由など無関係に批判している。この韓国の近代文明無視のやり方は、アムネスティーやSWCのような国際団体に習ったのだろう。

(おわり)

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