2023年11月3日金曜日

ある著名医院医師の旧約聖書の記述に対する感想について

高須クリニックの高須幹弥氏がyoutubeで様々なことについて話されている。10日ほど前だったと思うが、彼は宗教の話をしようと思うと言って、聖書の創世記と出エジプト記の物語に対する感想或いは疑問について配信している。(補足1)

 

高須さんの疑問は、現在の日本人が旧約聖書を読めば先ず浮かぶ疑問だと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=fHDtUjeW8AQ

 

 

例えば、アダムとイブが食べることを禁じられていた「善悪を知る木の実」(補足2)を食べて、神から出産の苦しみや食物を得るための労働などの罰を与えられたなどの話に対して、「神は何故そのような意地悪なことをされたのか?」という感想を話している。

 

また、出エジプト記のところで、エジプトに棲むようになったユダヤの民をエジプト人は奴隷のように酷使する。そのユダヤ人を救うプロセスの中で、神はエジプト人の全ての年端もいかない長子を皆殺しにしたという。その神の残酷さに気持ちが悪くなると話している。(補足3)

 

全能の神なのだから、神はそのようなことが起こらないように人を創造し、地球に住まわせることが出来た筈だと思うのも日本人としては自然である。その結果、我々日本人の殆どはこのような神を信じることは出来ないということになるだろう。

 

そして、そのような疑問が普通であるにも拘らず、何故このような物語が出来、そのような神をユダヤの民は信じるようになったのか? 高須さんが提出していないこの疑問・問題の解釈について、私自身が納得している考え方を以下に書きます。参考になれば幸いです。

 

一言で言えば、ユダヤの民は非常に厳しい生存競争の中で、その神を創造することで生き延びたということです。その神を我々日本人が信じられないのは当たり前です。それは、我々日本人はユダヤ人でなく、ユダヤ人の様には生きてこなかったからです。

 

我々日本人がユダヤの神(ヤハウェと言う)に似た神を持たないのは、あのような土地であのような情況下で生き延びてきた訳ではないからです。

 

つまり、ユダヤ教はユダヤ人の歴史の産物です。この考え方は、ユダヤ教信者には失礼にはならないと思う。何故なら、これはある異教徒の考えだからである。

 

2)勝手な物語(断定的に書きます。すべてに「ーーと思う」を補ってください。)

 

太古の時代、大陸の棲みやすい土地では、比較的小さな民族が生き残りを懸けて戦う時代が長く続いた。この時代に生き残った民族は、「(自分たちの)神」に守られている」と信じることで、強い団結力を築き上げ勇敢に戦うことで生き延びた。

 

ユダヤ民族もその様な過酷な歴史を生きた。代表的な出来事は、およそ旧約聖書の中に書かれている通りである。彼らは祈りの中で預言者が得た”神の指示”と、必死に絞った知恵と戦略で奇跡的に生き残った。過酷な歴史を生き残ることで、彼らの神は彼らの民族の中で全能の神となった。

 

特に知的に優れた人物が「預言者」(神の言葉を預かる者)となり、宇宙の創造から人類の誕生、そしてユダヤ民族の生き残りを組み合わせた物語を、神の言葉、啓示として”聞いた”のだろう。恐らく、妄想的或いは陶酔的な状態にまで高めた精神状態(祈りの中の神がかり)の中の産物である。

 

その物語は、世代を重ねるうちに磨かれ精巧な物語となっていった。

 

つまり、この世界は神が創造したのではなく、この民族の集団が長い時間を他民族と戦う中で、その神と物語を創造したのである。

 

聖書にある残忍な異教徒(他民族)の殺害は、その時代の現実だっただろう。民族と民族の戦いが残忍な光景を為すのは、兵士と民間人の区別なく戦うからである。そして、殺し殺される人たち全て、自分の民族・共同体の中では無垢で善良なひとたちである。

 

つまり、善と悪、美と醜、義と奸のもの差しは、本来、民族の境界を、そして日常と戦時の壁を越えては使えないのである。

 

近代になり兵士は全て職業的兵士になり、しかも戦争は日常から遠い出来事となったので、あたかも善と悪や義と奸の物差しは、すべての時間と全ての場所地域で共通だと信じる人は多い。しかし、それは根本的な間違いであり、政治に携わる人間はそれに気づかなければならない。(補足4)

 

つまり、文明の発展により、戦争は非日常の職業軍人だけの世界に封じ込まれ、個人主義或いは民主主義の時代となり、一般市民は常に温和で善良なる人として暮らせる。その結果、先進国では市民は一般に善良であり且つひ弱になる。

 

因みに、ハマスとイスラエルの戦争において、ある記者と何方側の兵士か忘れたが戦場の一人にインタビューした音声がyoutubeで流されていた。

 

記者が「防衛戦争だというのは、世界のかなりの人たちに理解されるかもしれない。しかし、何故年端もいかない子どもたちまで殺すのか」と聞いた。その兵士は、「かれらは将来の敵兵なのだ」と答えた。

 

つまり、パレスチナでの戦争を、近代文明の中の論理では測れないのだ。(追補1)

 

彼らはこの戦争の時期になって、古代に生きていると言えるのかもしれない。聖書が出来た時代の民族と民族の生き残りをかけた戦争の中で作られた聖書の記述が、そのまま現代のわれわれの感覚を、素通りする筈が無いと思う。

 

追補1)しかしこの戦争を放置しても良いとは言わない。パレスチナとイスラエルを出来れば近代の法治と民主主義と世界に強引に連れ戻すべきである。国連の人権高等弁務官事務所のニューヨーク事務所所長が、そのような手紙を高等弁務官に送っている。

 

補足:

 

1)宗教には2種類ある。その一つは個人が生きる上での苦しみを受け持つ仏教のような宗教とここで述べる集団が戦うための一神教の二つである。それについては、過去の記事をみていただきたい。

”二つの宗教:自分が生きる為の宗教と他人を支配する為の宗教”

 

2)神の命令に従うのが善であり、従わないのが悪である。敵である異教徒に囲まれ、戦えという神の命令が預言者により伝達されれば、それに従って戦う。そのことで、神の存在とその民族の生き残りの間の整合性が確保される。従って、神が示す善悪は、異なる民族には適用されない。

 

3)高須氏はこのほかにカインとアベルの物語、アブラハムとイサクの物語についての感想をかたっている。

 

4)日本の左翼の人に、善と悪及び義と奸の物差しの限界が分かっていない人が多い。平和主義を語る人は、現実から離れて議論する知的夢遊病者のような人が多い。

(11月3日早朝、編集、表題の変更;9:20に編集と追補を入れて最終稿)

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