昨日のニュースによると、サウジアラビアの聖地メッカを訪問する人たちが熱波の中で倒れ1000人以上が死亡したようだ。毎年死者が出るのだが、今年は異常に多いということである。https://www.youtube.com/watch?v=GIsnuQwuGP4
この時期(イスラム歴第12の月)一生に一度聖地メッカを訪問し拝礼すること(大巡礼;ハッジ)は十分な財力と体力を持つイスラム教徒たちの義務だという。厳しい天候の中で大巡礼を続ける人たちのことを知った時、表題の言葉が頭に浮かんだ。彼らは宗教の中で人生を全うするのだろう。
西欧では、科学と工業そして経済的発展及びそれらと並行した文化的変化により、宗教的義務に於ける厳格さは徐々に弱まり、宗教改革とその後の歴史の中で形骸化した。個人の自立を前提とする民主主義などの近代政治システムは、その結果として産み出されたのだろう。
また、市民革命と国民国家の時代を経て、主権国家と国際法とによる国際政治文化が出来上がり、国家間や民族間の残酷な戦争を減少させる国際体制が一旦出来た。
その一方、一神教の強く残る中東では、これらの西欧が産み出した国内及び国際政治システムは導入されない。一神教は社会的宗教であり、個人は自立しないからだろう。(補足1)
一神教の世界では、宗教は民族間の競争における旗となる。その民族の父として神が存在し、民は子であり、預言者は民を束ねる。前回記事でゼレンスキー氏のイスラエルでの演説を引用して示した様に、民族構成員全員が姉妹兄弟である。勿論、イスラム教徒でも同じだろう。
かれら中東の人たちは、同じ宗教の下で民族単位で生きている。民族間の対立は主に宗教間の対立でもある。生存競争の中にあって、宗教の違い故に対立すると言うよりも、元々は対立のために宗教が存在すると言った方がより正しいと思う。(補足2)
例えばイスラム教のスンニ派とシーア派の対立と言うが、これも彼らの対立の為に出来上がった宗教の違いとも言える筈である。
2)西欧近代の脱宗教化
西欧では、科学と技術の発達から産業革命(18世紀半ば~19世紀)が起き、金融システムの改良なども寄与して、飛躍的に経済発展が進んだ。大航海時代、世界の植民地化、更に経済のグローバル化が進み、世界人口が爆発的に増加した。(下図、国連世界人口基金より)
経済的豊かさは人々から厳しい生存競争の必要性を少なくした。それが宗教改革の土壌を作り、人々はカソリックからプロテスタントに宗教を替え、そしてそれも近代化の中で色あせていき、学問の世界では無神論が認知されるに至った。
凄惨を極めた中世の生存競争(戦争等)から解放され、近代の西欧は戦争を外交の中に押し込めることに成功した。その中で出来たのがハーグ陸戦条約(1899年;補足3)やパリ不戦条約(1928年)であり、それを受け継いだ国連憲章などである。
経済の発展が続き人口が急増すると、やがて人々は地球が有限であることに気付く。そして聡明な人々は、人類の危機を予想した。「成長の限界」が出版されたのが1972年である。一旦薄くなっていた民族間(或いは国家間)の生存競争の空気が再び濃くなりだした。
この世の終わりが近いのではないかと言う人たちが増加し、その中で文明のリセットを不可避と考えて、自分たちと所属する民族こそ何とか次の時代に生き残るべきだとの考えが発生する。そして日本では永遠に”信仰”されるだろう世界平和などの思想は、海外では時代遅れとなった。
それが、世界の富裕層を中心とした所謂グローバリストたちのグレートリセットや新世界秩序などの壮大な戦略である。そこには民族間の平等や人道や世界平和などの価値観は表を飾るだけである。表の理想論と裏の現実主義の時代になった。
つまり、西欧が産み出した近代の政治文化は既に時代遅れになっている。しかし不幸なことに、日本の政治家や政治評論家は、国際法を未だに世界政治を考える基準にしている。原爆を二度投下されても、その世界の変化に気づかないのである。
このブログサイトでは何度も、サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC;米国ユダヤ系圧力団体)副館長のアブラハム・クーパーが「原爆投下を人道に反する罪だとは思わない」と明言したことを紹介している。
彼らは、上記新世界秩序の達成に向けて、主権国家体制だけでなく、ハーグ陸戦協定などの西欧の政治外交文化を全て無視しても良いと考えている筈である。彼らは、古代の価値基準を復活させているのである。
それをユダヤ人の性格だという風に差別思想を用いて議論を終わること間違いであり、知的怠慢である。それは、米国から世界に伝搬している「脱近代」(ポストモダン)の時代の必然である。
ポストモダンの時代は、生活の道具立ては全く異なるが、価値の尺度において原点(先祖返り)に戻る。人々は、原始時代の民族主義や大家族主義を持ち、近代の主権国家体制や民主主義国家の価値は徐々に消滅する。近代政治文化圏との共棲は、表で理想論として行い、現実論は持ちつつ表には出さない。つまり、多くの”先進国”(日本以外)は二枚舌になる。
民主国家として歴史を積み上げた中で、近代の終わりとともに利己的、派閥的、民族主義的に人々は分断される。その流れの中で、米国の一マイノリティであるユダヤ民族が米国の政治経済を牛耳る程になったのである。彼らはポストモダンの先頭を走る。
以上は、社会学の大学院教育を受けていない一理系素人の考えである。もし不十分な点や間違いがあると思われる社会学に詳しい人が居られれば、コメントや議論を書き込んでもらいたい。
補足:
1)宗教には二種類ある。社会的宗教と個人的宗教である。一神教は前者であり、仏教や神道などは後者である。神道に一神教的要素を加味したのが伊勢神道つまり天皇を中心とする神道であるが、日本人の心の中に深く根差しているのは元々の神道である。(これは自説であり、学会の説かどうかはチェックして居りません)
二つの宗教:自分が生きる為の宗教と他人を支配する為の宗教
2)古代、国家をまとめるために宗教を取り替えることがあったと聞く。ローマがキリスト教を国教としたのも政治的な決断だったようだ。イラン(ペルシャ)も最初拝火教だったが、イスラム教へ変更した。
3)ハーグ陸戦条約では:戦争は厳格に戦闘員の間だけで行われ、市民一般を攻撃してはならない; 捕虜は虐待してはならない; など人道的な取り決めが多くなされた。従って、第二次大戦末期の大都市空襲や原爆投下は、国際条約に反し明確な戦争犯罪である。
(6・22早朝、編集あり)
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