2014年3月8日土曜日

佐村河内氏を”障害者支援思想”を冒涜するとして批難する資格は一般人にも無い。

 佐村河内氏の会見をテレビで見た。相当長い時間の会見だったので、かなりのことが判った気がする。全体的に見て入念に準備したあとの会見のようであり、”誠意ある”と形容することも出来るだろう。聴覚の障害は脳波検査を含めて行なわれており、その診断書の詳細はNHKのネット記事にある。(注1)そこには、記者会見での佐村河内氏の発言内容と同じことが書いてある。“感音性難聴”で聞き取り能力が約50dBということで、静かな環境でマイク等を用いればかなり聞き取れるとのことである。佐村河内氏は、聴力は3年前よりかなり回復したとのことである。医者によると、2級の障害からの回復は殆ど考えられないとのことであるが、佐村河内氏の声は彼が”耳鼻科的にかなり病的な人”であることを示しており、詳細な調査が無ければ簡単に判断できないのではないか。つまり、難聴の原因疾患として耳鼻科的病変があれば、その回復の程度により聴力も回復することも考えられるかもしれないと思うからである。(注2)一概に佐村河内氏の会見内容を否定することは、非科学的態度であると考える。また、統計に頼る場合、個々の原因疾患或いはそれが不明なら、症状別に分類されたケースにおいて、データ数が十分なければ回復の可能性の有無に関して証明できないと思う。
 ところで、会見の中で佐村河内氏が「あまりにも大きくなり過ぎた作曲家としての自分に戸惑いを感じた」(証言通りではなく、証言の意味を書いています。)と語ったことがこの“事件”を理解する鍵であると思う。つまり、新垣氏がマスコミの中でゴーストライターであったことを発表した背景には、佐村河内氏が現代のベートーベンという様に言われる位に大きな存在になったことがあったと思う。つまり、自分達の犯罪的行為もそれに比例して大きくなり、耐えられなくなったのだろう。「あと二曲で引退しますから」という佐村河内氏の申出を受け入れずに単独のあのような会見になったようである。このまま進めば何れ沈没する舟から逃げるタイミングについての考え方が、二人でかなり異なったのである。あのように単独で突然にマスコミの前に立ったのは、新垣氏が自分だけが助かろうとした様に私には見える。ゴーストライターの件に関して罪があったのなら、そして共犯であると言ったのだから、二人でその罪を背負うべきである。
 新垣氏が、「難聴であったとは考えられない」という言い方で、佐村河内氏の人格を否定する発言をしたことは、自分の才能が佐村河内氏に搾取されたことに対する怒りによるものと考え、そのように二月七日のブログを書いたが、それは全くの間違いであった。その台詞は、自分では共犯であったと言いながら、主犯は(或いは犯人は)佐村河内氏であるとする為のものであり、私には卑怯な行為に見えた。
 さて、ここで言いたいのは、何故佐村河内氏が大きな存在になったかということである。交響曲第一番「ヒロシマ」の音楽的な評価は、オリジナリティーに欠ける部分があるとのものが支配的な様である。それでも大きな名前になったのは、彼が聴覚障害者であったからだと思う。つまり、一般大衆が、そしてそれにサービスするマスコミが、そのような“障害者である偉大な作曲家”を欲したのである。(注3)そして、佐村河内氏が生活の為に始めた作曲(自分で行なった小品+新垣氏をつかって作り上げた大作)で高収入を得る手段として、マスコミと自分達共同で、その虚像を作り上げ演じ続けたのである。ただ、誤算は、世界的と言える程に、その名前が大きくなりすぎたことであった。
 つまり、佐村河内氏一人を生け贄にして、新垣氏もマスコミも、そしてその土壌をつくっている一般市民も、無罪の安全地帯に逃げ込もうとしているのである。それは卑怯ではないですか?と言いたい。(注4)

注釈:
1)NHKのネット配信記事: http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140307/k10015806921000.html
尚、表題の”障害者支援を冒涜する”は書き方が難しい箇所である。冒涜は神聖なるものを汚すことなので、http://masatorend.com/384.htmlにあるように、障害者と被災者への冒涜という表現は日本語的におかしい。このネットニュースの表題が正しい表現だとすると、障害者や被災者を神聖なるものとして尊崇しなければならない。
2)この説は医者からは一笑に付されるかもしれない。しかし、私の経験では、医者は一般的なケースでは知識を持っているだろうが、特殊なケースには極めて無力だと思う。それは一日に何人もの患者を相手にしなければならないからである。 3)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12121061797 に面白いまとめが書かれています。つまり、“障害者である偉大な作曲家”を欲した著名人達の交響曲第一番に関する感想と実際の(新垣氏本人の評価も含めて)プロの評価の乖離がよくまとめてあります。新潮の記事を読めば、もっとわかるかもしれません。
4)いままで18年間騙し続けたのだから、そして、何れバレるのだから、月刊誌新潮に記事が出たからと言って一人だけ残して沈没する舟から、夜中逃げ出すのは卑怯だ。また、これ以上”悪事”を重ねたくないのなら、作曲の依頼があっても受けなければ良い。自殺するといって脅かしたと言うが、佐村河内氏は自殺せずにアイデアが浮かないと言って、苦悶の姿勢をテレビの前で演じるて乗り切ることが可能である。むしろ、今回の様な形で一人だけ悪者にされた方がその確率は高くなる。
補足:
 障害を持ってうまれることは不運である。悪い顔でもって生まれることも不運である。美人に生まれるのは幸運である。お金持ちに生まれるのも幸運である。そして、その運が人生を大きく支配する。人間はそれら個人個人に与えられた運を甘受せざるを得ない。その人間としての宿命を承知して、他人を見下したり、自分を卑下したりしないことが、人間としての義務である。 (3/8午前7:30;11:50注3修正、補足を追加)

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